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オーリローリ◇第一部◇

7−3 ハリネズミの夜

 なんとかなるかもしれない。
 たった一つの呪文が、ステファンに自信を与えた。
 空を飛ぶまでにはまだ気が遠くなるほど長い道のりがあるだろうが、全く不可能というわけじゃない。
 飛びたい。この願いが叶う時、もしかしたら『あいつ』なんて出て来れなくなるほど、自分は強くなっているんじゃないだろうか。ほとんど根拠のない勝手な自信を糧に、それからのステファンは呪文の修行に明け暮れた。

 夏の遅い日没の後、ステファンは満月を眺めてそわそわしていた。竜人でなくても、こんな月の良い夜に魔力を持つ者が大人しくなんてしていられるわけがない。オーリは村のパブに出かけたし、守護を断られたエレインは森を駆け回っているに違いない。ステファンもできるなら外を走りたかった。夜風に両手を広げれば、今にも本当に飛べそうな気がする。持ち前の空想癖でもって自由に飛び回る自分の姿を思い描き、ベッドの上から飛び降りたりしてみた。とても眠るどころではない。 
 突然、一階で大きな音がして空想が破られた。
 なにやら悲鳴のような声さえ聞こえる。ステファンは急いで階段を駆け下りた。
「マーシャ、どうしたの?」
「ハリネズミですよ」
 手にほうきを持ったまま、マーシャが屈みこんでキッチンの隅を覗いていた。
「なんで家の中にまで入って来ちゃったんでしょうね。こら、裏庭にお帰り!」
 ステファンはしまった、と内心冷や汗を浮かべた。ここ最近、飲み残しのミルクを古いカップに入れて庭に置き、ハリネズミがやってくるかどうかをこっそり楽しみに見ていたのだ。まさか家の中にまで入って来るとは思わなかった。妖精たちは日没と共にどこかへ消えてしまうし、エレインも居ない。いつもならマーシャに任せておくところだが、何だか今日は自分が無敵になったような気がしていた(これも全く根拠はないが)。ここは男の子として、ちょっと頑張ってみるべきではないだろうか。
「ようし、任せてよマーシャ」
 ステファンは咳ばらいをすると、ハリネズミに意識を集中した。ここのところ、呪文の修行は順調だ。昆虫やカエルくらいなら呼び寄せたり飛ばしたりできるようになった(つもりだ)。だったらこいつくらい……ところがハリネズミはじっとしていなかった。二人の人間に見つかってパニックをおこしたのか、キッチンじゅうを走り回って、とうとう隅っこで針山のように丸くなってしまった。頭の中にちくちくと嫌な感触がする。もうこうなっては呪文どころではない。ステファンはあきらめ、マーシャから箒を受け取ると、オーブンの陰で震えている小さな侵入者を追い立てた。
「そらっ、出てこい!」
 飛び上がるようにして、ハリネズミは再びあちらこちらと走り回る。ほどなくチリ取りを持ったマーシャと一緒に出口付近まで追い込んだ。挟み撃ちだ。
「このまま庭に追い出しましょう、坊ちゃん」
 マーシャに言われて一瞬目を離した途端、ハリネズミが飛び掛ってきた。 
 どくん、とステファンの胸の中で何かが動いた。
 
 妙な胸騒ぎを感じて駆け戻ったエレインが見たものは、勝手口に飛び散るおびただしい赤い点と、もとは何かの小動物であったであろう残骸。そして――
 癇癪かんしゃくを起こしたように泣き喚くステファンを胸に抱えて、マーシャが途方に暮れていた。
「ぼくじゃない! ぼくじゃない! 逃がしてやろうとしたのに!」
 身をもがいて泣くステファンの手には、まだ箒がしっかりと握られている。
「わかってます、坊ちゃん。マーシャがちゃんと見ておりましたよ、坊ちゃんは悪くありません!」
 周囲の状況と二人のやりとりをじっと見たエレインは、辛そうに眉を寄せながらステファンを抱き取った。
「そうよ、ステファンは悪くない。悪い夢を見ただけ。もう眠りなさい」
 そして竜人のやり方で一気にステファンを深い眠りに落とした。

 翌朝の目覚めは最悪だった。
 頭が重い。石でも飲み込んだように、鳩尾みぞおちが痛い。何か恐い夢を見たような気もするが思い出せず、ステファンはのろのろと着替え、一階に下りていった。
「ステフ」
 オーリに呼び止められ、ぼんやりと見上げると、例の心を見透かすような目がこちらに向けられた。が、すぐにオーリは表情を和らげてステファンの頭に手を置いた。
「昨日はすまなかった。エレインに叱られたよ。弟子が大変な時にポーカーなんかで騒いでる場合じゃなかったな」
 何のことを言われているのかわからず困っていると、目の端にマーシャが箒を持って通り過ぎるのが見えた。
 マーシャ。箒。勝手口。
 頭の中でバラバラのパズルが組み合わされるような感覚をおぼえ、ステファンは小さく叫んでドアに向かった。
 勝手口はいつも通り、きれいに拭き清められている。月明かりの下で不気味に赤黒く見えた血痕も、小さな骸も無い。けれどあれが夢でなかったことの証拠に、庭の隅で妖精たちがこれ見よがしに、古いカップを指差して何かが破裂したような仕草をしている。間違いない。昨夜、またステファンの中から『あいつ』が現れて、ハリネズミを破裂させてしまったのだ。
 ステファンは震えた。マーシャの顔を見るのが恐い。オーリたちとは違って魔力の無い彼女からしたら、昨夜のステファンはアドルフと同類に見えはしなかったか。今までどんなドジをやらかしても温和な笑顔で包み込んでくれたマーシャも、さすがにあんな悪魔の子のような仕業を見てしまったら、忌み嫌うのではないだろうか。
 けれどそれは余計な心配だった。マーシャは小さな老眼鏡の向こうからいつもと同じ目をして微笑み、いつもと同じ口調で声を掛けてきた。
「坊ちゃん、お食事ですよう」
 それでもまだ固まっているステファンの肩を抱えるようにして、マーシャは誰に言うともなく言った。
「心配ありませんよ。満月が悪い夢を見せるのはよくあることです」
 申し訳ないような、安心したような気持ちが溢れて、ステファンは顔をくしゃくしゃにした。まったくもって泣き虫の自分が情けないが、どうしようもない。
 ステファンは『おばあちゃん』という存在を知らない。父の両親のことは聞いたこともないし、母方の祖母は彼が生まれるずっと前に亡くなったと聞いている。けれどもしもそのどちらかの『おばあちゃん』が生きていたら、こんな風に全てを赦して受け入れてくれるだろうか。たとえ心の中に『悪魔の子』の部分があったとしても。
 妖精の一人が冷やかすように足元から見上げている。ステファンは差し出された布で思い切り鼻をかんだ。


 その日、午後のお茶の時間になっても、二人の魔法使いはアトリエから出ず、深刻な顔で向き合っていた。
「――どうしても『封印』はしてくれないんですか?」
 思いつめたような顔を向けて、ステファンが問うた。
「駄目だ。本来持っている力を封じるというのは、思っている以上に精神こころに負担がかかるものなんだよ。まして君はまだ成長途上だ。どんな悪影響があるかわからないだろう」
「だって、エレインは契約の時、いくつも力を封印したって聞いたよ。それって、竜人の力が危険だから、でしょう? だったらぼくだって……」
「たいした自信だな。たかだか樫の扉を壊したりハリネズミを破裂させた程度で、竜人と同格に扱って欲しいのか」
 鳶色の目がオーリを睨む。と同時に、ピシ! と音を立てて天井から何かが降ってきた。一番近い場所にあった電球が割れて落ちる音だった。
「ほら、今だって」
 ステファンは震える声で床に落ちた電球を見た。
「ぼくは、きっと変なんだ。いつか『あいつ』の力が抑えられなくて、酷いことをしそうな気がする。先生、ぼくはアドルフにはなりたくない。もう血をみるのはやだ」
「だから『封印』に逃げるのか。なるほどそりゃ楽でいいな」
「先生!」
 部屋中に微振動が起きる。オーリは表情も変えず、杖を振って電球の破裂を防いだ。
「やれやれ間に合った。あんまり割らないでくれ、耐魔力仕様の電球ってのは高いんだぞ……」
「好きでやってるんじゃないってば! もういいよ、先生はやっぱり意地悪オーリだ!」
 言い捨てて部屋を飛び出そうとしたステファンは戸口でエレインにぶつかった。
「ハイ、ステフ。そんなにムキになることないわよ。こいつがふざけた性格だってことは知ってるでしょう」
 エレインは口元に犬歯を覗かせながら、挑むような笑みをオーリに向けた。
「言葉より実際に見せたほうがいいわ。力を封じるというのがどんなことか。そうよね契約主さん」
 エレインと目を合わせたオーリの喉が、ごくりとなる。
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