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夏祭り企画参加作品

ヒマワリ

 その店がいつ頃からあったのかは知らない。
 
 カンナたちがまだ小学生だった頃、商店街の外れに、煤けた紺の暖簾のれんをぶらさげて『オッチャン店』はぼそりと建っていた。建て付けの悪い入り口の引き戸は、もとは水色だったのかもしれないけど、ペンキが剥げかけて何色かよくわからなくなっていた。通りに面した出窓には、思いっきり下手くそな文字で『焼きそば・お好み焼き』と書かれていたが、実際にはたこ焼きが一番売れていた。

「ねえ、今日どっち行く?」
 プールからの帰り道、八月の強烈な日差しを避けながら、カンナは親友のチハルちゃんに小声で言った。
「うーん……オッチャン店、かなあ」
 チハルちゃんもまた、悪い内緒話でもするように声をひそめた。
 オッチャン店に子どもが出入りすることは、大人たちにあまり良く思われていない。理由は知らないが。けれど、大人が眉をひそめることに敢えて挑戦したくなるのは、これ、大昔から綿々と続く子どもの習性だ。まあ、たこ焼き買ったくらいで咎められた話は聞いたことがないけど。
「どっち行くったってカンナちゃん。あたしらのお小遣いで行ける店いうたら『オッチャン店』と、カキ氷の『浜ちゃん店』くらいしかないやん」
「あは、そうだった」
「コンビニは?」
「だめ。綺麗すぎるし、学校に近すぎ。あれじゃ『買い食い』のスリルっちゅうもんが無い」
「ひゃはは、スリルー!」
 チハルちゃんは笑い声を立ててから、慌てて口を押さえた。

『オッチャン』がどういう素性で何歳くらいの人なのか、誰に聞いても知らないと言われる。きっちり真ん中から分けた白髪頭に黒ブチ眼鏡、いつも何か難しいことを考えているような顔の、たこ焼き屋にはおおよそ似つかわしくない風貌の人。気に入らない客は平気で追い返すし、気まぐれに店を開けたり閉めたりするので、いつが定休日なのかも知らない。けれどたこ焼きの味だけは絶品だから、夏も冬も関係なく、子どもたちは親に何と言われようとたこ焼きを買いに行く。
 
「オッチャン、きーたよ」
 開け放した戸口からカンナが店を覗くと、むんとする熱気の向こうから『おう』というオッチャンの声が聞こえた。
「よかった、今日は機嫌がいいみたい」
 チハルちゃんがカンナの袖を引っ張って笑った。オッチャンは気まぐれだ。何かで機嫌を悪くしている日は、たこ焼きのタコが小さくなると聞いていた。
「ちょっと待っとってくれの。小っさい子らの分を先に焼こうわい」
 汗を浮かべた顔を鉄板に向けたまま、オッチャンは手際よくピックでたこ焼きを裏返していく。出窓の外には、目を丸くしてオッチャンの手早い仕事に見入る『小っさい子』たちの姿が見える。
 去年までは自分たちもあんな風に外で待っていたな、と思いながら、カンナは余裕の表情で丸い木の椅子に腰掛けた。
 オッチャン店には、不思議なルールがあった。
 四年生以下の小学生は、出窓越しにオッチャンとやり取りし、たこ焼きを買うだけ。
 五、六年生くらいになると、おっかなびっくり表の引き戸を開けて、店の中で食べるようになる。店の中央の席にどっかと座ってお好み焼きや焼きそばを食べられるようになったら、一人前。ただし行儀の悪い子は、年齢に関係なく追い出される。
 小さな町の小さな子ども社会は、可笑しいほど律儀に、この『オッチャンルール』を守っていた。

「あーっ、チハルにカンナ。お前ら何しよるんぞ」
 戸口からしゃがれ声と共に首を突き出した者がいる。振り向いたチハルちゃんが、あ、と顔をしかめた。
「コウタやん」
「うわ、めんどい奴来た。チハルちゃん、知らん顔しとこ」
 カンナたちの内緒話が聞こえたかどうか、ずん、と大柄なコウタは足を踏み入れようとした。が、その鼻先で、オッチャンが立ちはだかるようにしてコウタを見下ろした。 
「コウタ、お前こそ何しよる? ちゃんと外で待たんか」
「や、やけど、俺だって同じ五年生やのに……」
「お前はしょっちゅう『順番ぬかし』で小っさい子を泣かしよろうが。ルール守れんやつは店に入れん。外へ並べ」
 たこ焼きピックを手にしたオッチャンには、右手の小指が無い。そのせいかどうかは知らないが、決して大男でもなく怖い顔でもないのに、妙な迫力があって誰も逆らえない。コウタがすごすごと列に並ぶのを見て、カンナはチハルちゃんと突っつきあって笑いこけた。
「見た? コウタにも怖い人、おったんやねえ」
「あのバカ、五年にもなって青海苔を鉄板にぶちまけたり、悪さばっかりするからオッチャンに嫌われとるんよ。いい気味!」
 笑うとカタカタ揺れる不安定な丸椅子と、無数に焦げ跡のあるテーブルは、古い油が染み込んでいる。壁の扇風機がゆっくりとぬるい風を送るにつれて、オッチャンの特製ソースと粉かつおの匂いが鼻をくすぐった。

 オッチャン店が休みになるのは大抵、雨の日だ。雨が何日も続けば、店も続けて休みになる。それで本当に商売が成り立っているのかどうかは謎だったが。
 そんなオッチャンだから、いろいろ怪しげな噂は絶えなかった。夜中に畳一畳ほどの大きな荷物を運び込んでいたとか、たこ焼き屋は表の顔で、裏では何かヤバイ関係の仕事をしているんじゃないかとか。大人たちがいい顔をしないのは、そんな噂のせいかもしれなかった。
 そうした噂を耳にして、真っ先に怒り出すのは、あのコウタだった。五年生とは思えないずんぐりした身体でどーんとぶつかられると、中学生でも吹っ飛ぶ。もしもオッチャンがたこ焼きの弟子を募集したら、コウタのやつは間違いなく第一号に名乗りをあげるだろう。
 カンナも、オッチャンの悪い噂なんて信じない。行儀の悪い子にはうるさいが、オッチャンからは粗暴なにおいがしない。むしろとても真面目な人なんじゃないか、そんな気がしていた。
「ね、カンナちゃん。お店にヒマワリの絵、あったやん。あれ、オッチャンが描いたって本当やろっか」
 塾で顔を合わせると、チハルちゃんが急にそんなことを言い出した。
 ヒマワリの絵? そんなものがあっただろうか。カンナが覚えている店の壁には、油煙でこてこてに汚れてクモの巣が掛かった額縁しかなかったと思うのだが。
「いっぺん確かめてみないかん」
 誰に言うともなく、チハルちゃんは神妙な顔でつぶやいた。

 なぜ、そんなことを思いついたのか。
 塾の帰り、二人はオッチャン店の前にいた。今日は雨だ。もちろん店は閉まっている。
「その木戸、入り口だと思う?」
 チハルちゃんの指差す先は、大人ひとりがやっと通れるほどの細い木戸だ。
「わからん。ガスの置き場かも」
 この辺りの家は皆、プロパンガスを使っているから、家と家の隙間にガスボンベが二つ三つ置いてある、ということがよくあった。予想通り、カンナが開いた木戸の向こうにも、背の高いボンベが壁際に並んでいた。が、以外だったのは、その脇に小道があり、ずっと奥に続いていたことだ。
「この奥、オッチャンの家かなあ」
「そう、かも」
 自分たちは悪いことをしているのではないだろうかと不安になりながらも、カンナは傘を畳み、小道を進んだ。軒先から落ちる雨の雫がカーテンを作る向こうに、ひっそりと玄関らしき戸が見える。
「何か用かね、あんたら」
 不意に後ろから声を掛けられて、二人は飛び上がった。いつの間にか、オッチャンが小道に立っていた。いつものような前掛け姿ではなく、背広を着込んでいる姿は、まるきり知らない大人のようによそよそしい。
「あ、ご、ご、ごめんなさいえーと」
 慌てふためいて言い訳を探し、カンナは手提げの中からノートを引っ張り出した。
「しゅ、宿題。夏休みの宿題なんです。『身近な人にインタビューしてみよう』ていう」
 とっさによく思いついたな、と我ながら感心する。けれど半分は嘘ではない。夏休みの自由研究のテーマに、確かそういう例題があったはずだ。うんうん、とチハルちゃんも必死にうなずいて調子を合わせている。
 オッチャンはカンナの言葉を信じたのかどうか、いつもの難しい顔のままで玄関の鍵を開けた。
「まあ、入りなさい。そこで雨に濡れとったら、風邪をひく」

 湿気た土間のにおいと、墨のにおいが鼻をついた。
 六畳間と三畳間があるきりのオッチャンの家は、生活の場というよりは物置のようだ。襖のような大きな木枠や和紙、絵筆が文机と共に置かれている。怪しげな噂は本当だったのかもしれない、と思うと、カンナはどきどきしてきた。真夏だというのに妙に寒いのは、雨に濡れたせいばかりではないかもしれない。素足にサンダル履きで来たことが悔やまれたが、オッチャンは畳が汚れることなんて気にもかけていないようだった。
「お茶をいれたげよう」
 暗い台所で薬缶を火にかけるオッチャンは、顔も声もひどく疲れているようだ。断るわけにもいかない。お茶だけご馳走になったら、ごめんなさいを言ってすぐに帰ろう、そう思うカンナは居心地が悪くて黙っていたが、オッチャンのほうから問いかけてきた。
「で、何が聞きたいんぞい」
 カンナはチハルちゃんと顔を見合わせ、覚悟を決めてごくんと唾を飲み、ノートと鉛筆を出した。
「えーと、最初の質問です。オッチャンのお名前はなんていうんですか」
「名無しのごんべさんや」
 大真面目な顔でオッチャンは返してきた。
 笑っていいのかどうかわからないでいると、チハルちゃんが、いつものぽわんとした口調で続けた。
「じゃ、ふたつめの質問。オッチャン、絵を描いてるんですか。見せてもらってもいいですか」
 こちらを向いたオッチャンの目が、一瞬ぎょろりと光ったように見えた。けれどオッチャンは静かに首を振り、茶筒を開けながら答えた。
「そんな古い絵、見んほうがええ」
「なんで?」
「なんでもよ」
 薬缶を火から下ろすオッチャンの声は不機嫌ではなかったが、もうこれ以上は言いつのらないほうがいい。カンナはハラハラしながらチハルちゃんを見た。だがチハルちゃんは、ふうんとつぶやいてからとんでもないことを言い出した。 
「なら、次の質問。オッチャンは本当の絵描きさんですか。嘘の絵描きさんですか」
 なんてことを、と慌てて、カンナはチハルちゃんのTシャツを引っ張った。
 オッチャンはじっとチハルちゃんを見返してしたが、急に笑い出した。
「あははは、嘘の絵描きか。それはええ。はっはっは」
 初めて聞く、オッチャンの笑い声だった。
「そうそう、オッチャンは嘘の絵描きよ。もう何年も絵筆すら持ってないわい」
 欠けた湯呑みが三つ、盆の上で湯気を立てながら並んだ。

「オッチャンはなあ、死に損ないの、生き損ないよ」
「なんで?」
 今度はカンナが思わず口を挟んでしまった。
「なんで……さあ、なんでかなあ。あんたらみたいな小さい子は知らんでもええことが、この世にはようけある。まあ、そゆこっちゃ」
 ずず、と音を立てて薄い茶をすするオッチャンの、根元しかない小指が痛々しかった。額も頬も皺が重なり、それ以上に青黒い影が見え隠れしている顔は、店に立つ時よりもずっと老けて見える。
「描けばいいのに」
 ぽつりとチハルちゃんがつぶやいた。
「嘘の絵描きが描く絵をか」
「うん」
 オッチャンの眼鏡の奥の目が、もう一度笑った。
「宿題かや……よし描いたげよ。ただし一枚だけ。そこに腰掛けがあるやろ、二人で座ってみ」
 埃だらけのキャンバスの後ろから、大きなスケッチブックが取り出された。

 不思議な時間だった。
 オッチャンは鉛筆を一本持ったかと思うと、物も言わずに二人のスケッチを描き始めた。カンナは緊張して、チハルちゃんと手をつないだまま、ぴったりくっついて二人で腰掛けていた。
 雨の音、柱時計の音、紙の上を鉛筆が走る音。それらの中で、たこ焼きを焼いている時のオッチャンと、今目の前で絵を描くオッチャンは、カンナの頭の中でどうしても結びつかなかった。もしかしたらオッチャンは双子で、たこ焼き屋さんと絵描きさんとは別の人ではなかろうか、なんて考えが湧いたほどだ。オッチャンの目は二人を見ているようで、実はもっと遠いところの誰かを見ているのではないかという気がする。カンナは何度も後ろを振り向きたくなった。

「ほい、まあ、こんなもんで」
 突然に、オッチャンは手を止め、胸を押さえた。
「オッチャン、どしたん? 顔、青いよ」
 思わず立ち上がったカンナに手を振って、オッチャンはスケッチブックを床に置いた。
「はは、いやいやべっぴんさん二人も描いたけんな、心臓め、たまげたみたいなわい」
 冗談を言ってる場合ではないかも知れないのに、オッチャンは無理したように笑い、スケッチブックのページを丁寧に破り取ると、二人に手渡しながら言った。
「本当は、色も塗ってあげないかんと思うたけどな、時間がない。さあもうお帰り、雨も止んだやろう」
 二人は顔を合わせ、オッチャンにお礼を言ってから、ぬかるんだ小道へ出た。
「あんたら、もうこっちへは来なさんな」
 暗い玄関から声が追いかけてきた。なんで、とは聞いてはいけないような気がして、カンナはもう一度深々と頭を下げると、チハルちゃんの腕を引っ張って逃げるように立ち去った。

 そんなことがあってから、カンナたちは何となく『オッチャン店』に行きづらくなってしまった。店の前を通ることはあるが、そこに並ぶ小学生の列に、自分たちはもう加わる資格がないような気がしたからだ。
 出窓の向こうで、オッチャンは相変わらず汗を浮かべて手際よく仕事をこなしている。あのオッチャンに嘘をついてしまった。たこ焼きを焼いていない『あっち側』のオッチャンを探ろうとした。自分たちはもしかして、あの悪ん坊のコウタよりも悪いことをしてしまったのかもしれない――そう思うままをカンナが口にすると、チハルちゃんもばつが悪そうにうなずいて、オッチャンに描いてもらった絵を広げた。
「似てないね」
 少し淋しそうにチハルちゃんがつぶやいた。
「うん、似てない。オッチャン、下手くそやん」
 カンナもつぶやいて、絵の中の自分の顔を睨んだ。


『オッチャン店』が道路の拡張工事のために取り壊されるという話を聞いたのは、二学期が始まってすぐのことだった。
「なんで? 店がなくなったらオッチャンどうなるん?」
 教室の中は噂でもちきりだった。コウタが一番騒いで机を蹴飛ばしたりしていたが、そのうち騒ぎ疲れてがっくりうなだれてしまった。
「コウタ、何しよん」
 カンナは自分の何倍もあるコウタの腕をぐいと引っ張った。
「落ちこんどる場合やなかろ。学校終わったらオッチャンとこ行くよ!」

 オッチャン店へと続く道は、土埃でいっぱいだった。
 あの建てつけの悪い引き戸も、小学生が毎日並んだたこ焼きの出窓も、すでに跡形なく壊されて、床のタイルだけが店の面影を残していた。黄色いブルドーザーの向こうから、作業員が黙々と水を撒いて埃を静めている。
「あああ」
 コウタが頭を抱え、泣きそうな顔でうめいた。
「奥に誰か居る」
 チハルちゃんが指差す先は、オッチャンの住居部分だ。まだ壊されていない。カンナは作業員が後ろを向いた隙に、素早くブルドーザーの脇を通って奥へ向かった。
「オッチャ……」
 声をかけようとして、カンナは言葉を呑みこんだ。オッチャンではない。背格好は似ているが、そこに立っていたのはサングラスをかけた四十代くらいの男だった。
「なんぞ、お前」
 男は煙草をくわえたまま、オッチャンみたいな無愛想な声で問いかけてきた。カンナはいつでも逃げ出せるように距離を取りながら、勇気を出して聞いてみた。
「あ、あの。たこ焼き屋のオッチャン、いますか」
 サングラスの上で、眉が寄った。
「いんや、もうおらんよ」
「どこ行ったん? オッチャン、どっか他所に店ごと引っ越したん?」
 いつのまに来たのか、後ろからコウタがしゃがれ声で言った。チハルちゃんも男を睨むように立っている。
「お前ら勝手にこんなとこ入って……ああそうか。おやじの『お得意さん』か」
 しょうがないな、と言って男は煙草を足で踏み消した。
「オッチャンはな、もうどこにもおらんよ。死んでしもうた」
 あまりにもあっさりとした答えに、カンナはしばらく何を言われたのか理解できず、ぽかんとしてしまった。
「絵描いて、酒呑んで、妹らの結婚式にも出ずに勝手気ままやって……工場で指が飛んでからは絵も描かんようになって何をしよるかと思ったらたこ焼き屋じゃと……アホ親父め」
 男は空を仰ぎ、サングラスを外して目をぬぐった。横顔がオッチャンにそっくりだ。
「アホ言うな! オッチャンの悪口、言うな!」
 コウタが男に突っかかった。子牛みたいな身体を揺らして、むちゃくちゃに腕を振り回す。男は驚いて二、三歩よろけたが、そのままコウタの頭を掴んで簡単に地面に転がした。
「なんぞ、図体の割りに弱いねや」
 鼻で笑う男の顔を見上げて、コウタが悔しそうな顔を真っ赤にした。
 
「おいおい、そこで何しよる。作業中やのに関係者以外入ったらいかんやろが」
 ヘルメットの作業員が瓦礫を踏みながら近づいてくる。
「この子らも関係者じゃ。ちょっとくらい待ったれや」
 男は声を張り上げると、家の中に首を突っ込んで、何かを持ち出してきた。
「嬢ちゃんら、どっかで顔みたと思ったら……ほら、これをやるけん、もう帰れ。坊主にはこれや」
 男は平べったい箱をカンナに、くしゃくしゃの布をコウタに押し付けて、
「もう、帰れ」
 と繰り返した。

 帰り道もまた、埃っぽかった。誰も口をきこうとはしなかった。
 コウタの住む町営団地が見えてきたところで、やっと三人は立ち止まり、互いの手に渡された物を広げてみた。
 平べったい箱の中身は、薄い額縁に入った水彩画だった。
 女の子が二人、ぴったりと寄り添って座り、背景にはヒマワリが一面に群れて咲いている。
「似てないね。それにあの時は家の中やったのに。ヒマワリなんか咲いてなかったのに」
 チハルちゃんが鼻をすすりながら言って、絵をそっと撫でた。
「そりゃ、オッチャンは嘘の絵描きさんやもん」
 カンナもまた鼻をすすって、隣のコウタを見た。
 くしゃくしゃになっていたのは、見覚えのある紺の暖簾だ。
「よかったねコウタ。『のれん分け』やん!」
 カンナは分厚いコウタの肩を叩きながら、わざと明るく言った。本当は『暖簾分け』ではなく『形見分け』と言うべきだが。コウタが下手なシャレの意味を理解したかどうかはしらないが、うん、とだけ答えた顔はいつになく神妙だった。
 ツクツク法師が頼りなく鳴いている。
 焼けたアスファルトの上に落ちる三人の影が、少しだけ長くなったような気がした。

 あれから二年。
 中学生になった今も、カンナはチハルちゃんと親友どうしだ。コウタがまだたこ焼き屋さんになりたがっているかどうかは知らない。最近では柔道部に入って、ますます牛に似てきた。
 商店街沿いには新しい道路ができて、『オッチャン店』を思い出せるものは何もなくなってしまったが、チハルちゃんちのパン屋さんの店頭には、オッチャンの描いてくれた絵が飾られている。
「なんでヒマワリなんやろ」
 二人は今でも絵を見るたびに首を傾げる。

 オッチャンの本当の名前は、とうとう分からずじまいだった。
 
 (了)

競作小説企画 第三回「夏祭り」参加作品です
中学生になったカンナのお話はこちら→ジャジャムのとき
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