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新月が巡り来るたびに

 クォーレンの港町では、最近奇妙な噂が囁かれていた。

 昼間から飲んだくれている男達は用心すべし、どこからか現れる紅い悪魔に力勝負を挑まれるだろうから。油断した奴は、気がついた時にはすっからかんにされてしまっているだろうと。あるいは悪魔ではなく女の顔をした少年だったとか、男の服を着た魔女だったとか、話は面白おかしく脚色され、丁度良い酒の肴にされていた。

 そのクォーレンの、あまり品が良いとはいえない酒場で、エレインは酔客に賭けをもちかけていた。
 今日の勝負は腕相撲だ。エレインが勝てば酒を一杯おごってもらう。
 客が勝てば、キスひとつ。
 もとよりこの勝負、エレインが負けるわけはない。竜人の腕力は人間の比ではないし、万が一相手が優勢になっても、ちょいと「食す爪」を立ててやれば、どんな屈強の男でも貧血を起こしたようになって勝負になるまい。
 
 実際、爪の力は役に立った。
 この町へ来る途中、野宿するのに適当な樹はないものかと探していたところ、牛を連れた牧童がぶしつけな誘い文句を言って来たものだから、エレインは知らん顔して牛の首に引っかき傷をつけ、血の中から必要なだけの糧を掠め取ってやった。哀れな牛たちがその場にへたりこみ、牧童を慌てさせたのは言うまでもない。
 それでも飢餓感というやつはなかなか消えてくれない。
 オーリの傍を離れ、魔力を供給されなくなると、とても「爪」の力だけでは足らないようだ。何か食べなくてはいけないのだが、冬場のことゆえ、獲物になりそうな動物がいたとしても殺せば一族の禁を犯すことになる。
 人間どもに倣うなら食べ物を提供する「店」を利用すれば良いのだが、火を通した肉など食べる気にはなれないし、それ以前に「カネ」なるものを持っていなければ、どこの店に入ることもできないことは知っていた。全く人間の社会は不便にできている。
 ところがクォーレンに来て、この港町には酒がふんだんにあることが分かった。酒臭い酔っぱらいどもは気に入らないが、なんとか「カネ」なるものを持たない身でも呑むことはできないか、と考えた末、エレインは件の賭けを思いついたのだ。
 思惑は当たった。あちこちの店で賭けに乗ってまんまと酒をせしめられた気の毒な酔客が何十人いただろうか。面白いことに、人間には負けが込むほど意地になる性質があるようだ。もう一回、もうひと勝負、と言いながら懐を空にしてしまう男達を尻目に、カウンターをコツコツと叩いて酒の追加を要求するのは愉快だった。オーリに魔力を供給してもらわなくたって、この分ならしばらく力を維持できそうだ、とエレインはほくそえんだ。
 時には店を出た途端に数人に囲まれたこともあった。エレインはにこりと笑い、ちょっとした「ご愛嬌」のつもりで適当に一人二人の首根っこを捕まえて放り投げたり、街路樹を引っこ抜いて振り回したりして見せたのだが、男たちは肝を潰したようにみんな逃げてしまった。
「え、なんで?」
 これからが見せ場なのに、とエレインは口を尖らせた。

 今日は誰も賭けに乗ってこない。皆、エレインの顔を見るとそそくさと退散してしまうのだ。店の亭主はおろおろして、懇願するように言う。
「もういいかげんにしてくださいよ。客が来なくなっちまう」
「なーんだ、勝負するヤツいないの? つまんなーい」
 エレインは人のまばらな店内を見回した。そう、『つまんない』のだ。人間を腕力で負かして酒をせしめて、それはそれで面白いのだが、どうしようもなく足りないものがある。
 そんなエレインの様子を、少し離れた席からずっと観察している者がいた。魔法使いが着るような黒いローブを纏った、黒髪の男だ。
「退屈しているようだね。じゃ、俺と賭けなんてどう?」
 そう言って隣の椅子に移動してくる。 エレインは面倒くさい思いでちらっと相手を見やった。
「黒いローブを着たヤツとは勝負しないの。嘘つきだし、ズルするに決まってるもん」
「随分だなあ。じゃ、一杯おごるよ。それにしても変わったタトゥーだね」
 男はエレインの手の甲に見える文様をつつっ、と指でなぞる。蟲にでも這われたようにぞっとして、エレインは急いで手を引っ込めた。
「うーん、魔女ではないようだし……ひょっとしたら、人間じゃないとか」
「余計なお世話よ。契約主でもないくせに、この模様のこと、どうこう言わないで」
「やっぱり訳ありか。で、その契約主とやらはどこに居るの?この三日ほど君を見ていたが、それらしきお人は見えないけど」
 男は薄笑いしながら値踏みするようにエレインを見、ずい、とグラスを近づけて言った。
「放置中……ってやつ? 勿体無いね、こんな美形を。男物のワークシャツなんて着てないで、肩の出たドレスでも着たら似合うだろうに」
 というなり男は手を伸ばし、赤毛を無遠慮に掻き揚げて耳の封印石を見る。
「これも、ただの耳飾りじゃないね」
 エレインはその手を音高く払いのけた。
「さっきから気色悪い! 何が賭けよ、喧嘩売る気なら最初からそう言いな!」
「はーん、怒った顔がまた可愛いねえ」
「へらず口叩いているうちに頸の血管でも保護しておくのね。あんたの血は不味そうだわ」
 テーブルの下で、エレインの爪が乾いた音を立てて伸び始める。

「物騒な会話をしてるな」
 突然背後から声がし、振り返ったエレインはあんぐりと口をあけたまま椅子から転げ落ちた。それを難なく受け止めた声の主もまた、黒いローブを着ている。長い銀髪を揺らし、肩の上にエレインをひょいっと乗せてしまった。
「オ、オーリ!なんでここに」
 肩の上でしたばたするエレインを無視して、オーリは亭主を振り返った。
「この人の飲みしろは?」
「いえ、賭けで呑んでらしたわけで、はい、もうとうに、他のお客様からいただいてますんで」
「そう、じゃこれ、少ないけど迷惑料ってことで」
 オーリは幾許かの金をカウンターに置くと黒髪の男をじろりと一瞥し、
「君にも、世話になったの?」
 言いながら、他の客からは見えない位置で指先から青い火花を散らしてみせる。男はオーリの手元を見て顔色を変えた。
「い、いいいいいいえ滅相もない」
「ふうん。そりゃ、賢明だったね」
 オーリは含みの在る言葉と共に、相手の顔の前でパチン!と指を鳴らした。途端に、目に見えぬ力で引き剥がされたように男のローブが滑り落ち、内側に隠していた怪しげな魔法薬の小袋が床に散らばる。
「なにをす……」
 立ち上がろうとした男の肩を押さえ、オーリはほとんど顔をくっつけるようにしながら小声で言った。
「わたしの連れ合いに気安く触るんじゃない。『杖』を持たない者が魔法薬を売り買いするのも違法。それとも、ここで『本物』と勝負してみるかい」
 口元こそ笑っているが、水色の目は怒気を含んで今にも発光しそうだ。手は既に男の肩を離れて杖を掴んでいる。エレインは肩の上からそれを見て、はっとしたように暴れるのを止めた。男もまた、相手のローブ越しに突き付けられた物が何であるかすぐに察したのだろう、言葉もなく固まった。
「ブーツの脇にナイフ? 無駄だよ。そら、もう手が動かない。足にも麻痺が来てるから、蹴りも駄目。そうだろう?」
 まるで心を見透かしたかのようなオーリの言葉に、黒髪男は顔をひきつらせた。
「この程度の拘束魔法に簡単に引っかかるようじゃ、今の商売はやめたほうがいいな君は。さあ、十秒以内に判断するんだ。今すぐこの娘のことを忘れ、薬を処分するか。心臓にスパーク喰らった上で魔法管理機構に突き出されるか!」
 オーリは相変わらず口元に笑みを浮かべている。傍目には、魔法使いどうしが商談でもしているかのように見えるだろう。だが男の心臓の真上では、杖が肋骨の隙間を狙ってジ、ジ、と放電を待つように鳴っているのだ。
 暗くなり始めた窓の外で、季節外れのコウモリが軒先から逆さまにぶら下がり、機械仕掛けのように点滅する黄色い目でじっと中を窺っている。魔法管理機構の魔女と同じ目の色だ。男は辛うじて首を動かしてオーリの顔とコウモリを代わる代わる見、諦めたように頷いた。
「いい判断だ」
 オーリは言い残すと、エレインを肩に乗せたままさっさと店を出た。

「お若いの、どうした」
 亭主に問われ、黒髪男は金縛りが解けたかのようにその場にへたり込んだ。震える手で魔法薬を拾いながら、呻くように言う。
「冗談じゃない、あんなのに関わったら……亭主、マッチあるかな。それと、裏庭を借りるよ。すぐに焼き捨てなきゃいけない物があるんでね……」
 男が顔を上げると、窓の外のコウモリは、相変わらず黄色い目でねめつけるように店内を窺っていた。

 店を出てしばらくすると、オーリの肩の上でまたもやエレインが暴れ始めた。
「恰好つけるんじゃないわよ、どうせハッタリのくせに!」
「ハッタリで悪いか、こっちは君と違って喧嘩慣れしていないんだ。ああご苦労さん」
 オーリは手を伸ばし、追いかけてきたコウモリにご褒美の餌を投げてやった。
「やっぱりオーリの使い魔だったんじゃない。なーにが魔法管理機構よ」
 エレインは悔しそうにコウモリを見送り、オーリの頭をぺしりと叩いた。
「君の賭けに比べたら可愛いもんだろ。竜人に馴染みのない一般人に迷惑かけるんじゃないよ」
「うるさい。ちょっと、もう降ろして!」
「駄目だ。ここで放すとまた困ったことになる」
「困らない。オーリなんて居なくたって、独りでやっていける!」
「独りで?」
 声が本気で怒っているように聞こえ、エレインは一瞬ひるんだ。
「独りで、一生他人に酒をせびって生きていくつもりか。そうしてさっきみたいな奴にカモにされたいのか?」
「カ、カモって」
「奴が何をしようとしたか判ってる? 酒をおごるふりをして、相手を意のままにする魔法薬を盛ろうとしてたんだぞ!」
 エレインは思わず口を手で覆った。
「君はね、自分のことになると無防備すぎるんだよ」
 オーリはそう言うとエレインを地面に下ろし、咎めるように言った。
「護身用の武器もなしか」
「剣でも下げて歩けっての? かえって怪しまれるでしょ。一応細工用のナイフくらいは持ってるけど、爪と牙で充分こと足りてるわ」
「爪? まさか君は、人間相手に『食す爪』を使ったりしなかったろうね」
「嫌なこと言わないでよ。牛や馬ならともかく、人間の血なんて誰が」
 実際もう少しで使うところだったけど、とエレインは後ろめたい想いで目を反らした。
「それならいい。間に合って良かった」
  オーリは何かをこらえるように一つ息を吐くと、指を振りながらステファンに言い聞かせるような口調で諭し始めた。
「エレイン、君は人間のことがよく分かってない。黒いローブを着ていたって、まともな魔法使いとは限らない。さっきみたいな『杖』の所持すら許可されてないくせに邪な魔法を使う奴は、この町以外にもごろごろしているんだ」
「そりゃどーぉも」
 エレインはムッとしながら返した。
「自分だって竜人のことが分かってないくせに、なによ保護者ヅラで見下ろして。魔法は万能なんでしょ? 竜人ひとり取り逃がしたからって何、平気でしょ。番犬も飼ったことだし」
「平気……? 平気なわけ無いだろう!」
 銀髪の周りで青い火花が散った。騒々しいやりとりをする二人を、道行く人が怪訝な顔で見ている。が、そんなものは無視してオーリはエレインの両肩を捉え、さっきまでの落ち着いた口調はどこへやら、堰を切ったように怒鳴り始めた。
「一体何日離れていたと思う、どれだけ心配したと思うんだ! 使い魔も役に立たない。探索魔法も効かない。おかしくなりそうだった!」
「だったら! なんで魔法に頼るのよ、そんなに心配なら自分の足で探してくれればいいじゃない!」
「だから! こうして探して来たんだろう、魔法が万能だなんて思っちゃいない!」
「嘘つき、口ばっかりのくせに!」
 往来の真ん中でわめきあっているものだから、次第に物見高い人々が集まってくる。
 さすがにまずいと思ったのか、オーリは咳払いし、ローブを翻した。一瞬、砂埃を巻き上げて突風が通り過ぎる。次の瞬間には、二人の姿は往来から消えていた。

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