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新月が巡り来るたびに

 町を見下ろす小高い丘に光が弾け、二人は揃って地面に投げ出された。
「もうっ、相変わらず着地が下手なんだから」
 文句を言ってやろうと起きあがったエレインは、オーリの異変に気づいた。彼は冷たい地面に転がったまま、胸を押さえて顔を歪めている。
「オーリ?」
「なんとか、飛べたんだから……誉めてくれよ。二人分の、移動は、さすがにきつかった」
 ひと言ずつ言葉を区切ってようやく息をする様子に、エレインは眉をひそめた。『飛ぶ』のはオーリのお得意のはずだ。いつもなら、エレインを抱えたまま直接リル・アレイに帰ることだってできたに違いないのに。
「魔力が、低下しているんだよ」
 エレインの疑問を察したかのようにオーリは呟き、身を起こそうとしている。エレインは思わず手を貸して近くの木に寄りかからせた。
「いつからなの?」
「君が消えてから」
 オーリは力なく笑い、どうにか呼吸を整えた。
「アガーシャのインクがヒントを与えてくれなきゃ、君の居場所さえ掴めなかったよ。参った、いくら大食して補おうとしても、駄目なんだ。信じられるかい? 修行時代にすらこんなことはなかったのに」
「うそ、だってさっきまではそんな風に見えなかった。あの店の男にだって拘束魔法を使ったとか言ったじゃない」
「だから、あれはハッタリだってば。中途半端に魔法を覚えた奴ほど暗示に掛かり易いものなんだ。実際ヒヤヒヤしたよ、あいつがすぐに気付いて暗示を解いてしまうんじゃないかってね」
 他人事のようにくっくっと笑うオーリを見ながら、エレインは張り倒してやりたい思いにかられたが、どうにか呑みこみ、悪態をつくだけにした。
「馬鹿! どこまでふざけた性格なのよ。いっそ絵描きなんて廃業してペテン師か三文役者にでもなればいいんだ!」
「君を取り戻す為なら、何にだってなるさ」
 オーリは手を伸ばしてエレインの頬に触れた。
「守護者どの、契約はどうなった。四六時中僕を護ってくれるんじゃなかったのか」
「だって……もうあの家に守護は要らないじゃない。ヘアリー犬だって飼ったんだし」
「心は?」
 至近距離から目を向けられて、エレインはたじろいだ。まったく、この水色の目は! 薄暗がりの中でさえ人の心を見通すような、そのくせ、いつまでも捉えられていたいと思わせる、引力でもあるかようなこの目は、紛れもない『魔の目』だ。
「心は誰が護ってくれる。魔法使いの心なんていつも不安定だ。油断すると邪気につけいられ、狂気に喰われてしまう。だから守護者が必要なんじゃないか。護るのは君だ。君でなけりゃ、駄目だ」
 カッと顔に血が上るのを気付かれまいとして、エレインは慌ててオーリを押しのけた。ついさっきまで大声でわめいていたくせに、説教が効かないと知ると、今度は甘えるような台詞を恥ずかしげもなく口にする。この調子の良さに何度乗せられそうになったことか。
「勝手なことばかり言って! だったらなぜ」
 エレインは言葉を詰まらせ、ここ一カ月自分を苛んできたことを言おうか言うまいか、迷ったが、やがて絞り出すように言った。
「なぜ、いつまで経ってもオーリの『和声』は聞こえないの」
「和声?」
「しらばっくれないで。伴侶となった者どうしに聞こえる『和声』のことよ。人は口の端から生まれる声と心から生まれる声、両方を持ってるんでしょう。死んだお婆さまが、ちゃんと教えてくれたんだから。新月に伴侶となる人と誓いを立てると、お互いの心の声が『和声』となって聞こえるようになる、そうすればどんなに離れていても絆は切れないものだよって。でも、オーリからは口の端から生まれる声しか聞こえない……今も」
 エレインは震える言葉を継いだ。
「お婆さまは言ってた。もしも『和声』が聞こえない相手なら、それは伴侶の選択を間違えたか、相手に認められていないからだって。そんな相手には、どんな甘いことを言われたって信じちゃいけない、仇のように退けろって」
「ちょ、ちょっと待った、エレイン。フィスス族の『和声』の話は確かに聞いたことはあるけど、伝説の類だと思っていた。本当だったのか?」
「何をいまさら。契約の時、フィスス族のことは何でも知ってるようなこと言ってたのに。やっぱり魔法使いなんて嘘つきなんだ」
 人間は竜人ほど夜目が効かない。もうじき陽が沈んでしまえば、あの水色の目もこちらを見てはくれないのだろう、と思いながらエレインは落胆してため息をついた。
「伝説のわけないでしょう。『和声』がなければ、月明かりの無い新月の夜に、しょちゅう傷を負って顔かたちが変わるエ・レ・フィススの中からどうやって間違えずに自分の伴侶を見つけられるの」
「まあそれは、確かに……そうか。で、ここ何週間ばかり冷たい態度を取っていたのか。なんて教育をしてくれたんだろうね、ばあさまは」
 オーリは頬笑みさえ浮かべ、そんなこと気にするな、と軽い調子で返してきた。
 わかっていない。この魔法使いは、こちらの辛い気持など少しも解っていない。そう思うと、エレインは再びむかむかしてきた。
「あのね! この前の新月からこっち、あたしがどんなに悩んでたと思うの。悲しくて腹が立って、毎日どうしたらいいかわかんなくて。その上オーリは守護の仕事を犬にさせるなんて言うし!」
 だがそんな怒りも通じているのかいないのか、呑気な魔法使いは首を捻っているばかりだ。エレインはだんだん空しくなってきた。
「あたし、自分の選択が間違ってたなんて思いたくない。だから、食す爪とか『語り部』の感応力とか、封印されてた竜人の力ををもう一度返してもらったら、『和声』が聞こえてくるんじゃないかと思ったのに。やっぱり駄目だった……オーリ、あたし二年半も待ったのよ。まだ認めてもらえないの?」
 
 既に星が瞬き始めている。もうすぐ凍るような一月の闇がやってくるのだ。オーリは杖の先に火を呼ぼうとしたが、酸欠でも起こしたかのような息苦しさと頭痛を感じて、それは叶わなかった。
 魔力の衰えは深刻なようだ。一刻も早くエレインを連れて帰らねばまずいと思うのだが、彼女の言いたいことが今一つ掴めない。はっきり分かるのは、どうやらこのままでは簡単に機嫌を直しそうにない、ということだ。彼は焦りと苛立ちを覚え始めた。
 選択が間違っていただと。そんなこと、思いたくないのはオーリとて同じだ。『和声』が伝説でなく事実として綿々と続いていたのなら驚くべきことだが、聞こえないからといって――そんなに怒るようなことか? 
 むしろ怒りたいのはこっちなんだが。
 絵の仕事を放ってこなければいけなかったし、農場には迷惑をかけるし、いや馬は自力で帰ったそうだからそれは良しとしても。
 なにしろ人間は、同じヒト科とはいえ竜人とは違う種なのだ。『和声』など、フィスス族に特有の力かもしれないのに、同じことを期待するのはどうかと思う。まして一族がとうに滅んでしまった今、しきたりにこだわることに意味はあるのか。いや、百歩譲って『和声』が必要だったとして、なぜそれをオーリに言わないまま黙って家を出たのだ、エレインらしくもない。
 などとつらつら考えて言葉を返せないでいるうちに、痺れを切らしたのか、エレインは顔を背けた。
「もういい。オーリがあたしを認めてくれないんなら、誓いの言葉も反故にすればいい。でも家に連れ戻すなら、守護者の仕事は奪わないで。そうでないと、オーリの傍にいる意味がなくなっちゃう」
「反故になんてしない!」
 なんでそういう話になる。オーリは離れようとするエレインの腕を捕まえ、力を込めて引き戻した。『和声』など関係ない。人間には人間の愛し方があるのだ。これ以上面倒を言うのなら残る魔力の全てを使ってでも、という考えがちらと頭をかすめた途端、オーリは逆に身の危険を感じて戦慄した。両腕の中で、敵を威嚇する竜の仔のように赤毛を逆立てるエレインの、その緑の瞳の中に、凶暴な攻撃色を孕んだ火を見たのだ。
 エレインは竜人。人智を超えた「竜」の血を引く者。この手負いの竜の娘を力づくで従えることなど、どんな魔力を持ってしてもできるわけがない。最初に会った時からわかっていたではないか。
 気まずい沈黙が続いた後、オーリは腕を解き、少し離れて片膝をついた。杖を三度額の前に掲げ、地面に置く。こうして相手の前で武器を手放すのは、フィスス族流の和解を求める作法だ。エレインもまた、しばらく気を静める様に黙っていたが、やがてオーリと同じように片膝を地面につき、ズボンのポケットから小さなナイフを取りだして三度額の前に掲げた。
 地面に置かれた銀色の鞘を見て、オーリは目を見張った。
「これは?」
「オーリがくれたやつ。守護者になってすぐの頃に」
 ぶっきらぼうな声でエレインが答えた。
「そうだけど。こんなんじゃ護身どころか……」
「いいでしょ別に、気に入ってるんだから」
 拗ねたような声が返ってきた。宵闇の中ではっきり見えなくとも、どんな表情をしているのかは想像がつく。僅かな杖の光を反射する鞘の装飾を見ていると、二年前の夏に彼女と契約した時のことを思い出した。並の人間などより剣の扱いに慣れているエレインなら、この刃物が「武器」としてはほとんど役に立たない「道具」に過ぎないことくらい、分かっていたはずだ。それなのに、オーリが愛用していたこの小さな装飾ナイフを彼女は欲しがった。そして今回、家を出る時にもまた――
 オーリは直感した。エレインの心はまだ離れていない。それなのになぜ、ここまで頑なになるか。キアンの言葉を借りるなら、どこかで『ボタンの掛け違い』があったのか。
 彼女がここまでこだわる限り、『和声』は相当に重い意味を持つのだろう。自分にはどうでもいいと思えるようなことが、相手にとっては一生を左右するほどの大ごとだったりするのは、人間同士でさえ、ままあることだ。もしかしたら、フィスス族にとってのしきたりとは、信仰に近いものなのかもしれない。
 
 痛みが酷くなる一方の頭を押さえ、オーリは懸命に思い出そうと集中した。 
 ――我が爪を託さん 汝が牙となる為に
 ――我が牙を託さん 汝が爪となる為に
 
 十二月の新月の宵に、二人で誓った言葉だ。冬の森でも決して枯れることのない常緑の『王者の樹』だけが証人だった。
 フィスス族の古老から聞いた通り、一字一句間違えてはいないはずだ。そしてお互いの名を呼び合い……

――名前?
 オーリはハッと顔を上げた。
「エレイン、誓いの言葉の時、君は僕を何と呼んだ?」
「オーリローリ・ガルバイヤン。ちゃんとそう呼んだわ」
「ああ、もしかしたらそうじゃなく……」
「オーレグって呼ぶべきだった? でもそれは子供の頃の名でしょ。あたしは『オーリローリ』のあなたしか知らないし、守護者の契約を結ぶ時にもその名で呼んだもの」
 確かにそうだ。エレインと出会ったのも、契約を結んだのも、『オーリローリ・ガルバイヤン』だ。オーレグという未熟でみっともない自分など、エレインには知られたくはないし、彼女の前ではあくまでも、大人の分別をわきまえた魔法使いとして振舞っていたかったから、そうしてきた。
 だが、名前を変えたくらいで、本当に自分は変わっただろうか。人間同士なら、過去に目を瞑ったまま、あるいは隠したまま沿う男女の話などいくらでもある。けれど、あまりにも正直な心をぶつけてくるエレインとこれから何十年と向かい合うのに、果たして『オーレグ』を封じたままでいいのか。
  
 オーリは木に寄りかかり、目を閉じた。葉を落とした冬の木々は一見弱々しく見えるが、その硬い樹皮の下には次の春に向けて生命としての力を蓄えているはずだ。まだ魔法使いとして未熟だった少年の頃、こうして何度、沈黙する木から力を分けてもらったことか。
 しばらくそうしていると、心なしか頭痛が治まり、心が澄んできた。深呼吸をひとつすると、冬の星座が冴え冴えと輝来始めた天を睨み、オーリは口の端を持ち上げながら心で呟いた。守護者契約の時とは確かにわけが違う。『竜王の愛娘』を娶るのには、生半可な覚悟では通用しないのかもしれない。結構だ、では魔法使いなりの『覚悟』というものを見せてやろう、竜の王よ――

「エレイン、聞いてくれ。僕の名は母からもらったんだ。母の名がジグラーシ語で『陽の光』を意味する『オーリガ』だから僕はその男性形の『オーレグ』というわけ」
「そう」
 どうでもいい、とでも言いたげな硬い声でエレインが相槌を打った。
「『ガルバイヤン』の姓は祖父から受け継いだ」
「それは前にも聞いた」
「でも、まだもうひとつ、誰からも呼ばれることのない名を僕は持っているんだ」
 驚いたようなエレインの顔がオーリのほうを向いた。
「シウニシク」
 オーリは久しく口にしていなかった名を、母国語の発音に乗せた。
「父の名が『シウン』だから、その息子という意味だ。ジグラーシ風に名乗るとこうなる。『オーレグ・シウニシク・ガルバイヤン』」
「初めて聞いた……」
「そりゃそうさ。亡くなった母と僕以外、誰も口にしなかった名だもの。魔力を持たなかった父は、一族から母の正式な夫として認められないまま国外で行方知れずになったし、出生届にも『シウニシク』の名は書かれなかった」
「秘密の名前ってこと? その名で誓いを立てなかったことが、そもそもの間違いだって言いたいの?」
「わからない。ただ、名前は単なる記号じゃない。名付けた人の願いや、その名で呼ばれた日々の記憶が刻まれている。だから重いんだ。エレイン、君はどう。フィスス族が滅んだからといって『ベ・ラ・フィスス』の名に意味が無くなったなんて思うかい」
「ばか言わないで。この名はあたしの誇りよ」
「誇り、か」
オーリは背を向けると、後頭部の銀髪をかき上げた。
「エレイン、君の目ならこの暗さでも判別つくだろう。ここに何が見える?」
「なにこれ……石? 金属?」
 エレインは眉を寄せ、ピンの頭のような小さな光る欠片がオーリの頭に埋まっているのを見た。
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