20世紀ウィザード異聞

第十章「スコーンが焼けるまで」 1

 翌朝、アーニャを迎えに来たユーリアンが意味ありげに笑いながら朝刊を見せた。
「いいニュースだオーリ。例の『花崗岩』の事件が暴かれたせいで、竜人管理法がどうなるか、微妙になってきた」
 朝刊の三面には、竜人が封じ込められたリル・アレイの岩の写真と共に過去の忌まわしい事件に関する簡単な解説が『写真提供:魔女出版』として載っていた。
「何? 何て書いてあるの?」
 人間の文字が読めないエレインは写真を食い入るように見つめている。
「署名記事が付いているな。落雷によって竜人迫害の事実が暴かれたことを天啓と考えるべきでは、だってさ。よく言うよ今頃になって」
「あの落雷の後、オーリが連絡をくれたから良かったんだ。お陰でトーニャの同僚がすぐ写真を撮りに行って他社にもばらまいたもんだから、昔事件に関わった魔法使いどもが慌てたのなんの。見ものだったぜ」
 ユーリアンは面白そうに笑ったが、オーリは冷静に頭を振った。
「悪いけどユーリアン。ゴシップ好きの大衆紙や魔法使いしか読まない隔週誌が書き立てたくらいじゃ、管理法を変えるほどの影響は無いんじゃないかな。何しろ何十年も昔の事件だし、今さらって気もする」
「いや、今だから意味があるんだよ。さきの大戦から七年、世の中が豊かになるにつれて、自分達のしてきた事に疑問を持つ人間が増えてきたんじゃないのか? 事実水面下じゃお堅い連中も動いているらしい。もともと『管理法』に反対していた議員連中が証拠の岩を保護するために魔女の協力を求めてきたって話も聞くしね――おっと、早く帰らなきゃ。おいでアーニャ、ママが待ってる」
 ユーリアンに抱き上げられて、アーニャは満面の笑顔を見せた。
「パパ、アーニャいっぱいとんだよー」
 今朝早くから目覚めたアーニャは、森に囲まれたオーリの家の周りを存分に飛び回ってすっかり満足したようだ。
「またいつでもいらっしゃい、小さい魔女さん。ここは守られた場所だから、いくらでも飛んでいいからね」
 守られた場所――エレインの言葉を、ステファンは胸の中で反芻はんすうした。確かにこの家は、そうなのかも知れない。竜人も、魔女も、魔法使いも、周りに気兼ねせずに本来の自分でいられる。けれど本当は、街の中だろうが学校の中だろうが、いつでもありのままの自分でいられたら、どんなに楽しいか知れないのに。
「今度来るまでには、ぼくもちゃんと飛び方を覚えるからね」
 小さいアーニャの頭を撫でながら、ステファンは本気でそう思った。
 飛びたい。昨日みたいにオーリに振り回されるのではなく、自分の力で。自分のやりかたで。
 ユーリアン親子が帰った後、オーリもまた空を見ながらじっと何かを考えていた。

 午後、オーリはアトリエに大きな縦長のカンバスを持ち込んだ。
 描きかけのまま屋根裏で眠っていた絵だという。なぜそれを今持ち出したのか、覆い布を外しながらオーリは感慨深そうに絵を見上げた。
「以前描いていた時にはなぜ挫折したのか分からなかった。画肌マティエールが気に入らないだの、構図がどうだの、表面的なことばかり気になってね。でも違う。この絵に何が足りなかったのか、今ならはっきり分かるよ」
 こんな綺麗な絵に何が足りないのだろう、とステファンは不思議な思いで見上げた。淡い色彩で描かれた画面は、なるほどまだ下絵の線が残っていたりする個所はあるが、ステファンにはこれだけでも充分なように思える。縦長の画面に何人かの人物が上へ、上へと向かうような姿勢で並ぶのは、何かの舞踊だろうか。一番上の空に近い場所に描かれた人には翼のような物も見えるから、天使でも描こうとしたのだろうか。 
 ステファンの隣で同じように首を傾げているエレインの肩に手を置いて、オーリは力強く言った。
「エレイン、君を――いや、竜人フィスス族を描かせてくれ!」
「フィススの絵を?」
「そうだよ。傲慢な人間どもに思い出させてやるんだ、かつて竜人という隣人が大勢居たことをさ」
 オーリはステファンにも明るい瞳を向けた。
「ソロフ師匠の言葉を覚えているかい? 絵描きには絵描きなりの戦い方があると言ってたろう。悪いが今からしばらくは、絵の制作が中心の生活になるよ。ステフ、君には助手を努めてもらうけど、いいかな」
「もちろんです!」
 張り切って答えたステファンは、ああこの目の色だ、と思った。最初にオーリに会った時と同じ、自信に溢れた力強い水色の目。やっぱりオーリローリ・ガルバイヤンはこうでなくては。
 胸いっぱいに吸い込んだ風は、張りつめた新しい季節の香りがする。

 その日のうちに、オーリは描きかけの画面全体を油で薄めた深緑の絵の具で塗りつぶしてしまった。
 なんて勿体無いことをするんだろう、とステファンは思ったが、もとより絵のことなんかわからないし、黙って見ているしかない。それにオーリの目の輝きを見ていると、ここから何が生み出されるのだろうという期待のほうが勝ってくる。
 アトリエに、再びエレインが戻ってきた。
 相変わらず気ままに梁の上に寝転がって面白そうに作業を眺め、時折からかうような言葉を投げてくる。けれどそれだけで、寒々としていた部屋の雰囲気がいっぺんに変わり、皆をホッとさせるのは不思議だった。
 
 イーゼルに乗せると天井に届きそうなカンバスは、長身のオーリといえども画面の隅まで描き込むとなると大変だ。オーリはL字型のイーゼルを倒れないように固定すると、脚立を持ち込んで描き始めた。
 こと絵に関しては、オーリは一切魔法を使わない。数本の筆と刷毛とナイフを駆使し、描く、描く、ひたすら描く。 ステファンは助手といっても絵が描けるわけでもなし、オーリから指示された番号の絵の具を手渡したり、筆を拭いたりするくらいしかできないが、油の調合を手伝うのは魔法薬でも作っているみたいで面白かった。――魔法修行とは何ら関係なさそうだが――それでも初めてオーリの役に立てる誇りで胸が躍った。
 問題はエレインだ。
 剣を構えたり弓に矢をつがえたりしてモデルを務めるはずが、ものの五分とじっとしていられないらしく、しばしばオーリに文句を言わせた。
「あーもう台無しだ! なんでそう動きまわるんだよ」
「だって退屈なんだもん」
「あの落ち着きのないユーリアンだって絵のモデルくらいは務まったぞ、君は筋力はあるくせにこらえ性がないんだ!」
「偉そうに言わないでよヘボ絵描き!」
 また、騒々しい日々が始まった。けれどステファンはもう心配しなかった。お互いの鼻先に噛み付かんばかりに大声でわめき合っていても、二人の間の空気が以前とは全然違うことに気付いたからだ。
「せんせーい、あんまりエレインを怒らせてると絵の中の人まで怖い顔になっちゃうよ」
 落ち着いたステファンの声に二人は吹き出し、それぞれの位置にまた戻る。

「おやまあ、すごい臭いだこと」
 アトリエにお茶を運ぶマーシャが顔をしかめた。
「いくらお仕事に熱中してても換気はしなくちゃいけませんよ、オーリ様。ステファン坊ちゃんにも良くありません」
「溶き油の臭い? ぼく慣れちゃったよ」
「そうら、その『慣れる』っていうのが良くないんです」
 マーシャは厳しく言って窓を全開にした。
「確かに揮発油の臭いは身体に良くないな。悪かった、ステフ。助手を頼んだからといって一日中アトリエに篭っていることはない、時々は外に出て遊んで来ればいいよ」
「それで言うんなら絵の具も毒なんでしょ。絵筆を口にくわえるクセはやめなさい、オーリ。あたしまで被害を受けるから」
 お茶を飲もうとしていたオーリは顔を赤くして咳き込んだ。

 そんな日々を送るうちに、不思議な変化が起きた。
 オーリは以前のように大食しなくても魔力を保てるようになって、マーシャを大いに驚かせた。逆にエレインは人間の食べ物に興味を持って、甘いデザートくらいは恐る恐る口にするようになってきた。
「無理に人間に合わせることはないんだよ」
 心配そうなオーリにエレインは首を振った。
「別に無理はしてないわよ、前から食べてみたかったの、本当は。でもなんか、怖くてさ。人間の食べ物を食べちゃうと、竜人じゃなくなるような気がして」
「何を召し上がろうと、エレイン様はエレイン様でございますよ」
 マーシャは嬉しそうに言った。
「確かに。この二年間酒とお茶しか口にしなかったのに、その丈夫そうな犬歯は衰えそうにないもんな」
「竜人の牙と言ってちょうだい」
 軽口の応酬をしておいて、エレインはふと真顔になった。
「ねえオーリ、竜人と人間の祖先って、どのくらい近いのかしら」
「祖先? さあ、どうかな。どうして急にそんなことを?」
「確かフィスス族を生み出したお母さんは、紅い竜だったんだよね」
 ステファンは落雷の時に見た美しく大きな竜を思い出しながら言った。
「創世譚では、そういうことになっているわ。でもわからないのは『始めの父』よ。竜ではなくて人間だったらしいんだけど、東方から来た皇子、という以外には何も伝えられていないの。今まで知ろうとも思わなかったけど……」
「フィスス族は竜人の中でも最も人間に近いからな。でも似たような話なら、人間にもあるさ。母は昔、父のことを『東洋の龍の子孫』だと言っていた。もちろんそんなのはおとぎ話なんだけど、子供の頃は本気で信じていたよ」
「それ、本当におとぎ話なの?」
 エレインが目を輝かせた。
「ああ、残念だけど。でも、祖先のことはともかく、フィスス族の存在を知った時に不思議に親しみを覚えたのは事実だ。母の言った東洋の『龍』というのは西洋ドラゴンと違って、翼がないんだ。それに、雷や雨を司るとも言われている。フィスス族の始母竜の話と驚くほど似ているね。それと、ガルバイヤンという姓も――祖父ワレリーの通り名だが――『雷を操る』という意味を持っている。なんだろうね、この類似は」
 
 窓から吹き込む風が、黄金色の落ち葉を運んできた。秋の午後は短いが、まだ陽は輝いている。オーリは席を立ち、散歩に行こう、とエレインを誘った。
「ステファンも来るかい?」
「ええと――ううん、いいや。ぼく『半分屋敷』の手入れをしなくちゃいけないし、ソロフ先生の宿題も考えなきゃいけないし、結構忙しいんだ」
 ステファンはオーリ達よりひと足先に外に出て、庭に向かった。
 もうじき十一歳になるのだ。こんな時にノコノコ付いていって『おじゃま虫』になるほど鈍くはない。
 マーシャはオーリ達を見送りつつ一人で微笑んだ。
「運命というものですよ。わたくしは最初から分かっておりました、エレイン様は来るべくしてオーリ様の元にいらした方なんです、きっと」 

 ステファンは庭草に埋もれた『半分屋敷』の前で腕組みをして考えた。手製の日除けはもう要らない。その代わり、寒くなるまでに崩れた壁を自分で直してみよう、そう思った。たとえ時間がかかっても、不恰好でも、一つ一つ石を積み上げていくのだ。オーリの魔法に頼るのではなく、自分の手で。
 庭草の間に白い物が光っている。ステファンが置き忘れた蝋石ろうせきだ。夏の間はこれで壁石に落書きをして遊んだ。
「――捕まえた!」
 ステファンが手を伸ばすと、小さな蝋石は真っ直ぐに飛んで手の中に納まった。今はまだこんな力しかない。でも、もう頭痛は起こらない。ステファンは満足そうにうなずいて、一番大きな壁石に自分の名前を記した。

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