20世紀ウィザード異聞

第十章 3

  十一月最初の土曜日。

 首都ブラスゼムの駅から程近いヴィエークホールには、多くの人が訪れていた。この季節には珍しく、空は穏やかに晴れている。灰白色の古めかしい建物は、もとは貴族の所有する小さな城だったのだが、戦後になってヴィエークという財団が買取り、二年に一度、若い芸術家のために大規模な美術展を開いていた。
 広いホールの中は幾つかのブースに仕切られ、いつもは個別に細々と展覧会など開いている画廊主がここぞとばかりに店自慢の作品を並べる。あるいは個人で出展する者も居る。有名無名の別もなく、若手の芸術家が自分の野心作を世に問う場に生まれ変わった古城は、静かな熱に満ちていた。
 
 平和だな、とつぶやく画家が一人、円柱にもたれて人びとを観察していた。描きたいものを描けず逃げ回った少年時代が嘘のようだ。世の中がどう変わろうと、美を求めようとする人の心が消えないものならば、平和なほうが良いに決まっている。買い付け目的で訪れた美術商に混じって、ただ新しい感覚の作品を楽しむため、我が家の壁に飾る小さな絵を求めるため、行き交う人びとの後ろに見えるのは、つつましい幸福の色だろうか。そんな幸福の陰で忘れ去られようとする者たちが居るのも確かだが……

「わ、先生。ずっとここに居たの?」
 ぶつかりそうになった少年が、驚いて鳶色の目で見上げた。
「ずっと居たよ。気配を消してると風景の一部になってしまうから分からなかったんだろう」
「うん。あのね、先生の絵、すごく評判いいみたいだよ。すぐに良い買い手がつくだろうって!」
 無邪気な少年の言葉に微笑み、画家は冷静に言った。
「あんまり早く売れるのは困るな。主賓が来てからでなきゃ面白くない。じっくり交渉するように言っておいてくれ」
「わかりました。でも、ちょっと他のとこも見てきていい?」
 答えを待たずホールに向かう小さな背中に、迷子になるなよ、と言いかけて画家は苦笑し、自分に言い聞かせた。
「過保護だぞ、オーリローリ。ステファンだってもう十一になるんだから」
 ホールの一隅から場違いなほど声高にしゃべる人物が現れた。画家の待ち人が来たらしい。取材に来た新聞記者や雑誌記者を見て何を勘違いしたか、傲慢な笑い声を立てている。
「来い、カニス。舞台はこっちだ」
 誰にも聞こえぬようにつぶやき、銀髪の画家は円柱の向こうに消えた。

 オーリローリ・ガルバイヤンの絵の前には人だかりができていた。
 暗い緑色をベースに、燃えるような赤い髪が画面に踊る。肥沃な大地を蹂躙する人間たち、誇り高く剣をかざして戦い果てる竜人、そして混沌の地を離れ、天高く舞う美しい娘――竜人フィスス族の過去、現在、未来がひとつの画面に表現されている。
 最上部に描かれた竜人の娘は、まぎれもないエレインの顔だ。背中には、微かな光が翼の形に浮き出ている。いやエレインばかりではない。全体的に重い色調の絵の具がところどころ掻き取られて、下絵に描かれた明るい色が顔を出し、画面に光を与えている。オーリが一度全体を塗りつぶしてしまったのは、最初に描いた天使の絵を諦めたのではなく、むしろ生かすためだったのか、とステファンはため息をついた。
 カニス卿の顔は、確かに描かれていた。画面の最下部、どす黒い混沌の地に鎖で繋がれてぶざまに吠え立てる――犬(canis)の姿で。

「こっ、こっ、これは何だあ!」
 カニス卿は大きな腹を揺らしてわめいた。
「バカにしおって若造が! こんなものは芸術の名に値せん! おいサウラー画廊、事と次第によっては……」
 だがそんなわめき声も、次々と焚かれるフラッシュやカメラのシャッター音にかき消された。成り上がり者のカニスを日ごろから良く思わない大衆紙の記者など、溜飲が下がったような顔で絵の中の『犬』とカニスの髭づらを並べて撮っている。
「オオ、素晴ラシイ、シュールデス!」
 カニスを押しのけて外国人らしい女性が声をあげた。
「美シイ! 竜人ガ生キテイマス。コノ国デコンナ絵ニ出会エルトハ」
「全くだ、奇をてらっただけの抽象画が多い中で、久々に魂のこもった絵を見ましたぞ」
 画商らしい別の男も、顔を上気させてさかんに画廊主のキアンに話しかけている。
 人びとは絵を賛嘆する一方で、壊れた機械仕掛けの人形のように口をパクパクさせているカニスの顔を見ては失笑をこらえている。
「お気に召して頂けたかな、カニス卿」
 人垣の頭越しに、銀髪の青年がのどかに声を掛けた。
 一瞬怪訝そうに青年を見上げた人びとの中から、記者たちがまず気付いてどよめいた。
「ガルバイヤン! あなたはこの絵の作者、ガルバイヤンですね?」
「カニス卿の出資を受けるというのは本当ですか?」
「卿、犬の姿に表現されたご感想は? 何かひと言!」
 凹面型のフラッシュが一斉に焚かれる。赤ら顔をさらに赤くしていたカニスは、記者たちに取り囲まれてオーリを睨んだ。
「貴様……我輩に恥をかかせたつもりだろうが、後悔することになるぞ」
「はて、恥とは?」
 オーリはすっとぼけた顔で応じた。
「わたしは筆に任せて表現したまでですよ。絵の解釈は人それぞれだ、出資の話もお心任せということで」
「気ニ入ラナイナラ、アナタハ退キナサーイ、犬男爵サン。コノ絵ハ私ガ買イマース」
 白い手を挙げた外国人女性に、周囲から拍手が起こる。画商たちは焦った顔を見せた。普通この手の美術展では、絵を買い取るなら画廊を通じて個人的に、静かに交渉を進めるのが常だ。
「いや、ちょ、ちょっと待ってください。私が先に交渉を」
「いいえ、当店こそが」
 
 にわかに賑やかになるブースの中央で、突然カニスが笑い始めた。
「くくく、なるほどねえ。まんまと策略に乗せられましたな」
 ざわめいていた人びとが一斉に振り返った。
「諸君、気をつけたまえ。この若造は魔法使いだ。自分の作品を売り込むために人の心を操るくらい、わけはない。しかも家に赤毛竜人の娘を囲ったりして、不道徳極まりない奴だ」
 オーリの水色の目が怒気を含んで光った。『竜人の娘』という言葉に反応した記者が、今度はオーリを取り囲む。
「あの絵に描かれた竜人のことですね? モデルが実在するんですか?」
「どの竜人です? ひょっとして、あの一番上に描かれた美人がそうですか?」
 なんて人たちだ、とステファンは記者たちを睨んだ。ついさっきまで『犬のカニス』を笑っていたくせに、面白そうな話題なら何にでもとびつくのか。モデルがどうとか、絵の価値とは関係ないじゃないか。幸い今日はエレインを連れて来てはいないが、何でオーリはこんな連中を呼び寄せたのだろう? わざわざ使い魔まで飛ばして。
 ステファンの不安をよそに、オーリは冷静な顔で答えた。
「確かに、あの竜人のモデルとなったのはわたしの守護者ですが。カニス卿には逆に『不道徳はどちらか』と申しあげたい。一たび魔法使いが竜人と契約したなら、ずっと共に居るのはむしろ当然だと思いますよ。あなたのように、年端も行かない少年の竜人をカネで売り払うなど、わたしには信じられないね」
 落ち着き払ったオーリの声に、人びとはおお、とうなるような声をあげた。
「我々は遥かな昔から、竜人の偉大な力の恩恵を受けて生きてきた。思い出して欲しい、皆さん。この国が戦争の痛手から立ち直る時、人間の手では何年かかるか知れなかった港や街の修復を、一体誰が担ってくれました? その代償として我々は、彼らに何を返してきたのです?」
 ステファンははらはらしながら成り行きを見守っていたが、ふと気が付いて、大人達の足元をかいくぐり、カニスの背後に近づいた。オーリは冷静に話を続けている。
「――わたしがこの絵を描いたのも、人間の罪を忘れないためだ。かつて隣人として大勢いたはずの竜人を思い出して欲しいからだ!」
「ところでその竜人の娘ってのは、今日は連れて来なかったんですか? ぜひ取材させて頂きたいんですがねえ」
 オーリの言葉など耳に入らないように軽薄な調子でカメラを掲げる男を、水色の目が睨む。ピシ、と音を立てて、フラッシュ球が割れた。
「本当に竜人の話を聞きたいなら、礼を尽くして管理区にでも取材したらどうです? どれほど人間が酷い仕打ちをしてきたか、嫌になるほど分かるはずだが」
 気迫に押されたように、男はすごすごと人垣に隠れてしまった。
 
「ごたくはそのくらいにしておくんだな、ガルバイヤン」
 薄笑いを浮かべて一歩踏み出そうとしたカニスが、う、と口髭を歪めた。
「ずるいよ、おじさん。魔法使いはこういう場所で杖を使っちゃいけないんだ。そう習わなかったの?」
 こっそり杖を向けようとしたカニスの手を、ステファンが両手で押さえている。
 周りの人は飛びのき、非難の声を浴びせた。
「魔法使いの公共の場における禁止事項違反。記者さん、今のはちゃんと撮ったんだろうな」
 オーリは口の端を上げて皮肉っぽく言ったが、決して目は笑っていなかった。
「カニス卿、幸運でしたね。魔法管理機構にでも知れたらおおごとだ。違反が未遂で済んだことをこの子に感謝なさい」
 悠然と言い捨てると、ステファンを連れてその場から離れようとした。

「は、いい気になりおって! 貴様はもうお終いだぞ、ガルバイヤン。我輩はヴィエークの者にも顔が効くんだ、分をわきまえない生意気な若造など、画壇に居られなくしてやる!」
 カニスは真っ赤な顔で幼児のようにあからさまな憎悪の言葉を投げつけている。オーリは画廊主に肩をすくめてみせた。
「だってさ、キアンさん。どうする?」
「さてねえ。『顔が効く』ヴィエークに言ってつまみ出してもらおうか。あんなのがきゃんきゃん吠えてたんじゃ、美術展の品位に係わるからね」
 うんざりしたようなキアンは手を挙げ、各ブースを見回っている係員に合図を送った。
「カニス? そんな名ではなかったはずだ。確かあの者は……」
 人垣の後ろから騒ぎをじっと見つめる人物がつぶやいた。誰にも気付かれることなく、彼は静かに会場を後にした。

 * * *
 
 会場の外に出ると、オーリもステファンも、さっきのやりとりを思い出してどちらともなく笑い出した。
「よくやったステファン・ペリエリ! あの時のカニスの顔といったら! 風刺画にして新聞に載せてやりたいくらいだよ」
 空を仰ぐオーリは心底愉快そうに銀髪を揺らした。
「ぼくもスッとした。先生こそすごいや、あんな大勢の人の前でカニスをとっちめるなんてさ。エレインにも聞かせてあげたかったな」
「ばかいえ、膝が震えてたんだぞ。緊張が過ぎて人前で火花がパチパチ飛び出したらどうしようかと思ってたさ。カニスが先に杖を取り出してくれなきゃ、こっちが『違反』をするところだったよ」
 二人で背中を叩き合ってひとしきり笑い合った後、ふとステファンは心配になった。
「先生、さっき最後にカニスが言ってたことだけど。まさか仕返しに、先生の絵を売れなくしたり……とか」
「あり得るね」
 オーリは涼しい顔でうなずいた。
「あれだけ恥をかかされて大人しく引き下がるようなやつじゃないだろう。まあ今回の作品は売れるだろうから画廊側に損をさせることはないとして、問題はこれからだな。カニスのわめいてた事も、あながち不可能なことじゃない。絵が売れなくなったらどうするかなあ。トーニャにでも泣きついてもっと挿絵の仕事を回してもらおうか?」
「そんな……」
 他人事のように笑っているオーリを、ステファンは呆れて見上げた。
「理想はどうあれ、大人の世界は汚い。覚悟はしてるよ。どんな分野でも、大抵の人はその汚い波にもまれながら、どこまで妥協してどこまで自分の誇りを守るか、そのせめぎ合いで毎日格闘してるんだ。このオーリローリだって今は偉そうに言ってるけどね、かつては『汚い大人』に負けて、自分の意にそぐわない絵を描いてた時期もあったんだよ」
「描きたくない絵を描いてたってこと? 絵描きさんって、好きなものを描いてるんじゃないんですか?」
 目を丸くするステファンには答えず、苦い笑みだけ返して、オーリは電車通りにではなくヴィエーク・ホールを巡る小径へと足を運んだ。小径は庭園を縫って黄金色に色づく木立へと続いている。

「僕は画家としては割と早くに認めてもらってね。まだソロフ師匠の元に居た頃から、あちこちで公募展や競作展コンペに挑んでは、賞を獲得することに躍起になっていた。そうやって絵の世界で名を上げることで、何処にいるか知れない父に気付いてもらえるかも、なんて考えていたんだ。本名のオーレグで描いていたのもそのためさ」
 穏やかな午後の風が葉を揺らすと、木漏れ日も揺れる。いつの間にか『僕』口調になっているオーリは、静かな表情で話し続けた。
「ところがそれに目を付けたのが大叔父だ。有力な貴族議員や将軍の肖像画を描かせて、我が一族を守るのに利用しようとしたんだね。たかだか肖像画くらい、大した賄賂わいろにもならないと思うんだが、大叔父も必死だったんだろうな、他にもいろいろと裏で使われた魔女とか居たから……とにかくそれからは自分の描きたいものなんて一切描けなくなった。毎日描きたくもない脂ぎった顔だの、ばかばかしい勲章だのばかり見ながら過ごさなきゃいけない。思い出しても反吐へどが出そうだ」
 湿った朽ち葉を踏みしめながら、ステファンは十代の頃のオーリに同情した。なまじ人の心の内側が見えてしまう彼は、毎日どんな気持ちで筆を取っていたのだろう。
「それでも、これも一つのチャンスだ、と考えて手を抜かずに描いたんだ。もしかしたら肖像画家として名を知られるようになるかも知れない、なんてね。戦争が酷くなるにつれて画材も手に入れにくくなってた頃だ。画布の代わりに使い古した麻袋を使うような日々だったから、どんなに嫌な仕事だろうと奴らにしがみついてさえいれば、必要なだけ画材が手に入るのも大きな魅力だった。ところがある日、目の前に居るのがどうにも許しがたい人物だと知って、描けなくなってしまった」
「誰、だったんですか?」
「ウォルフガング・ミヒャエル・グランネル将軍。――嫌だな、まだフルネームで覚えてたよ――魔女や魔法使いの力を戦争に利用した張本人だ。その昔母やアガーシャが死んだのだって、奴の考えに反対して追い詰められたせいだ。それまで『同年代の中には十代で戦場に送られた魔法使いも居る。それに比べたら絵を描いて兵役にも付かずに済むならこんないいことはないじゃないか』なんて甘い考えでいたのが一気に現実に引き戻されてしまった」
 高い木の梢で、甲高くヒヨドリが鳴いた。ステファンは胸が痛む思いでオーリを見上げたが、彼は感情を表すこともなく淡々としている。
「もちろん先生は断ったよね? そんな仕事」
「断るだって? そんな選択肢は無かったよ。僕にできたことと言えば、大叔父の家から逃げ出すことくらいさ。エレインの言葉を借りるなら敵前逃亡、だな」
 オーリは冗談めかして言ったが、笑える話ではない。ステファンは唇を噛んで話に聞き入った。
「しばらくはあちこち逃げ回ったけど、結果は見えていた。大叔父の探索魔法で見つかって連れ戻されたんだ。さんざん叱られ、一族こぞって前線に送られたいのかと脅されてね。結局描かざるを得なくなった。皮肉なことに、その時に描いた絵が評価されて、僕は十八にして望みどおり肖像画家として認められたんだが……」
 オーリは自分の右手をじっと見た。
「その時思ったんだ。この手は自分の魂を裏切った、もうどんなに有名になろうと父に認められる絵なんて描けないだろう、ってね。それからまもなく戦争が終結して肖像描きからは解放されたんだが、真っ先にした事は何だと思う?」
 ステファンは黙って首を振るしかなかった。
「将軍の絵を展示してある美術館に忍び込んだんだよ。戦争が終わって古い価値観は終わりを告げた、なら絵だって同じだ。あの恥知らずな肖像画を破いて、大叔父の仕組んだ茶番をお終いにしてやろうと思ったんだ。その結果どうなろうと知ったこっちゃ無い、魔力を封じる罰を受けても、二度と絵が描けなくなっても構わないとさえ思ってた。実際、そうなるところだったよ、ソロフ師匠に止められなかったらね」
 二人の足音に驚いてか、茶色いリスが走り過ぎる。オーリはそれを目で追いながら微笑んだ。
「師匠には何もかも見透かされてた。僕が苦しんだことも、思いつめて美術館に忍び込んだことも。その上で諭してくれた。『時の試練』という、例の言葉でさ。『一時の感情に流されて将来に傷を残すより、その悔しさも恥すらも力に変えて、どんな人間の心も動かすくらいの絵を描いてみろ』とね。その時自分に誓ったんだ。助けてくれたソロフ師匠の為にも描き続けよう、けどもう二度と魂を裏切るような絵は描くまいって」
「もしかして、先生が名前を変えたのってその時から?」
「そう。オーリローリ、ふざけた響きだろう。どこの国の言葉だったか、『笑う光彩』という意味だそうだ。この名前によって僕はまた一からやり直せたんだ。ついでに『ガルバイヤン』の姓も消したかったんだが、さすがにそれは死んだ母に悪くってね。中途半端な改名になっちまった。こんなので一からやり直した、なんて言うのはずるいかな」
 そんなことはない、と言おうとしたステファンの前で木立は途切れ、車の行き交う大通りが見えてきた。
「おしゃべりしてたら反対側に出てしまったな。近くだから、ついでにユニオン本部に寄って杖を受け取ってこようか」
「え、杖って何の」
「君の杖に決まってるだろう!」
 オーリに明るい瞳を向けられて、やっとステファンは思い出した。八月に申請した、魔法使いとしての最初の杖のことだ。
 
 通りの向かい側に、息をひそめるように建つ中世様式の細長い尖塔が見える。尖塔を見上げながら、オーリは指を弾いて黒いローブを取り出した。
 
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