20世紀ウィザード異聞
第五章 1
――いい匂いがする。
午後のお茶のために、お母さんがスコーンを焼いているのかもしれない。
いつのまにうたた寝してしまったのだろう。
起きなきゃ。
「ステフ、ステファン」
懐かしい声が、すぐ傍で聞こえる。
大きなあたたかい手が、額に触れている。
お父さん、帰っていたんだ――
パチパチッ、と金色の火花が頭の中に飛んで、ステファンは目を開けた。
「や、おはよう。それともお帰り、というべきか」
水色の目がのぞきこんでいる。
そうだ、ここは黄色い田舎屋敷ではない。額に手を触れているのは、父ではなくオーリだ。
途端に意識が鮮明になって、ステファンは慌てて起き上がろうとした。
「ああ、急に起きないほうがいい。頭痛がするだろう」
確かに。頭の中で調子っぱずれの音叉が鳴り響いているようだ。再び枕に沈み込むしかない。
オーリはクッションをいくつか抱えてきてステファンの枕の下や背中に押し込み、上体が起こせるようにしてからコップを差し出した。
「とりあえずは水だ。それから食事、と言いたいが三日ぶりじゃ胃にこたえるな。マーシャが今スープを用意してるよ」
「み、三日も寝てたんですか?」
コップの水を一気に飲み干してむせながら、ステファンはバツが悪そうな顔をした。
「正確に言うと、書庫に立てこもってから一日半、出てくるなり眠り込んで一日半。ファントムから聞いたよ。書庫でとんでもない透視をしてみせたって?」
「ええっと……」
ステファンは思い出そうと試みたが、一度にいろいろな事柄が頭に浮かび、どれから話していいかわからなくなってしまった。
「……ぼく、謝らなきゃ。先生、約束破ってごめんなさい。No.5の鍵をひとりで勝手に開けちゃったんだ」
「そうだ、想定内の約束違反だ」
オーリはニヤリとした。
「けど、保管庫に入ってからのことは思いもよらなかった。無茶というか、無謀というか、途方もないな――悪いけど、寝てる間に記憶を見せてもらったよ――教えてもないのにあんな危険な魔法なんてやっちゃダメだ!」
「あれって魔法、だったんですか?」
「やれやれ、無自覚にあんな力を出したってのか。いいかい、あれは同調魔法といってね、対象になるモノに刻み込まれた記憶に入り込んで追体験するやり方だ。訓練を積んだ大人の魔法使いだって、気をつけないと意識を引っ張られたまま戻れなくなることがあるんだよ。現にそれで廃人になった奴もいる。ファントムが道案内になってくれなかったら、君は今頃どうなってたか」
ステファンはぞっとした。仮面のファントムに『今に壊れるぞ』と言われた意味が、初めてわかった。
「オスカーが居なくなったうえに君までどうかなってしまったら、残されたお母さんはどうなる? あんまり突っ走るなよステフ。何のために師匠がいるんだい」
ベッド脇に腰掛けたオーリは、なぜか顔を向けずに、手だけ伸ばしてステファンの頭をがし、と捉えた。父と同じにおいがする。
「こんな頼りない師匠でもだ。――悪かった。家の中がギスギスしてたな。議論の場所は選ばなきゃ、ってエレインと反省したんだ」
「ぼくこそ、あの、ごめんなさい」
もう一度謝りながら、ステファンは不思議な安心感を覚えた。
「ステーフ! 起きた?」
赤いつむじ風のように、エレインが飛び込んできた。返事をする間もなく、オーリからステファンをひったくると、
「生きてる! 生きてる! 良かったぁ!」
と、骨も折れんばかりに頬ずりしてきた。最初に会ったときと同じだ。ステファンは必死で突っ張った。
「痛い、痛い、頭が割れるっ」
「そのくらいは我慢しろステフ、みんなを死ぬほど心配させた罰だ」
オーリは笑いながら両腕を広げ、エレインもろともステファンを抱きしめた。
「坊ちゃん、スープを……おやまあ」
スープの盆を持ったマーシャが、子供部屋で大騒ぎする三人を見て呆れ、それから袖口でスン、と鼻をすすった。
両親以外にも、自分をこんなにも思ってくれる人たちがいる。――ステファンはもみくしゃにされて笑い転げながら、今さらのように帰ってこられて良かった、という思いをかみしめた。
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