20世紀ウィザード異聞

エピローグ

 誰もが、聞きたいこと、話したいことを山ほど抱えていた。
 そして誰もが我先にしゃべろうとしたので居間の中は騒然とし、ガートルードは何度も立ち上がり、厳しい声で場を収めねばならなかった。
 オスカーがどこへ姿を消していたのか、から始まって、忘却の辞書のこと、あの気の毒なガーゴイルのこと、七月以来ステファンが遭遇したさまざまなこと。特にここ最近のオーリとステファンの奮闘ぶり、極めつけは『声送り』でステファンがやってみせた、無謀っぷり。
 話の順番も何もあるものか、と皆が競ってしゃべるさまを、ミレイユはほとんど口を開けたままで聞いていた。無理もない。これまで魔法など頭から否定してきたというのに、この場に飛び交う言葉のほとんどは彼女の誇る『常識』の範疇を超えているのだから。 
 そんな母を半ば気の毒に思いながらも、ステファンは幸福だった。
 暖かい部屋。熱いお茶とミルクの匂い。
 焼きたてスコーンにたっぷりすぎるほどのジャムとクロテッドクリーム。 
 オーリと顔を見交わすエレインは、もう誰にも遠慮することなく暮らしていけるに違いない。
 そしてなによりも、今は傍に両親が居る。
 ソファの右側に母が、左には父が。真ん中に座るステファンは満ち足りた顔で代わる代わる二人を見上げた。
 そう、満ち足りている。けれど心の隅にほんの一点、まだ忘れ物をしているような気がしてそれが何だか分からず、ステファンは毛布からはみ出した足をぶらぶらさせた。 

「みんなちょっと待った! じゃあ、ひとつずつ疑問点を明らかにしていこうぜ。オスカー、吊るし上げにされる覚悟はできてるか?」
 悪童のような顔で笑うユーリアンにオスカーは苦笑してうなずいた。
「まずは君自身のことだ。オーリが言ってたんだ、君には過去へ自由に旅をする能力があるんじゃないかってね。それは本当か?」
「本当だ」
「証明できるか?」
「できないね」
 あっさりと降参の仕草をして、オスカーは手を広げてみせた。
「証拠の品がない。いくら過去をつぶさに観ることができても、その時代の物に触れたり手を加えたりするのはタブーだからね。木の葉一枚、石ころ一個、持ち帰れやしないんだ」
「そうじゃ。異時間移動魔法における禁則というもんがある」
 老魔女のひとり、リンマがぼそりとつぶやいてうなずいた。
「まあ、時間を遡るなんて自然の理に反することなんだから当然だろうけど。なんとか証拠を、と思ってカメラを持って行ったこともあるんだがなあ。フィルムには何も写ってはいなかったよ。遺跡の発掘チームに参加した時には定説を否定するようなことばかり主張するから、よく仲間に言われたもんだ、。オスカー・ペリエリ、お前の説は面白いが荒唐無稽だってね。悔しいが、僕の説を証明するような出土品はあまり見つからないから。貴重な遺跡が埋もれているはずの場所が地雷原になっていて、調査どころじゃなかったこともあったな……」
「証明などできなくても、オスカーに力があることは信じるよ。だが忘却の辞書を使った事情やあんな手紙を残したいきさつは説明してもらいたいね」
 オーリが水色の目をじろりと向けた。まだ少し怒っているようだ。
「こいつは拗ねているのさ。そんな面白い魔法を使うんならなぜ事前に教えてくれなかったのかってね」
 ユーリアンは茶化すようにオーリを見やり、それから真顔になってオスカーに向き直った。
「で、どうなんだ。やっぱり覚悟の上であの辞書を使ったのか?」
「そうだ。あの紙を切り取った時点で辞書の魔力が溢れ出すのは知っていた。だから十一月の聖花火祭の夜に辞書を使い、翌日に手紙を書いて、僕は旅立ったんだ」
「旅立ったって、あのトランクの中から? だから、誰もお父さんが出て行ったのに気付かなかったんだ」
 ステファンは今さらのように、自分があの古いトランクを持っていきたい、と言い張った時のことを思い出して複雑な気分になった。
「でもガーゴイルが手紙を届けたのは十二月。なぜ一ヶ月も空白があった?」
「ひとつには、隠しておく為。なにせこっちは魔法道具の使い手としてはルール違反をしてるんだから。『魔法監理機構』にでも知られたら、手紙まで取り上げられかねない。それじゃ困るんだ」
「カンリなんとかって、前に先生が言ってたとこ?」
「そうだ。魔法使いや魔女にだってね、秩序はあるんだよステフ。いろいろ禁則を設けてるし、違反すれば罰も受けなきゃいけない」
 ステファンに簡単な説明をして、オーリは難しい顔をした。
「ルール違反って。何をやらかした、オスカー」
「うん、まあ。正直に言うとね、辞書を使ったのは一度だけじゃない。何度か過去に戻って、書き込んではやり直し、を繰り返したんだ」
 唖然とする一同の前で、オスカーは悪戯を告白する子どものような顔をした。
「なんと、オスカー・ペリエリ! わかっとるのかえ? 忘却の辞書に書き込めるのは、一人につき一項目だけじゃぞい」
「それなのに過去に戻って何度も書き直した? なんたることよ、辞書の禁則と時間の禁則、両方を破ったことになるわえ。監理機構に知られずとも懲罰もんじゃ!」
 タマーラとゾーヤが皺に埋もれた目をひんむいて非難がましい声をあげた。
「わかってますよ魔女さん。だから罰は甘んじて受けたんだ」
「罰って……二年間、この世界から消えちゃうってこと?」
 父と再会した場所――灰色の濃い霧に閉じ込められたような世界を思い出しながら、ステファンは恐る恐る口を開いた。
「島流しのようなもんよの。『シムルゥの間隙』というてな、この世とあの世の境にある世界よ」
「そこではあらゆる時間を行き来することができるが、自分の時間は流れぬ。意識はあるが、誰とも言葉を交わせず、働きかけることもできぬ。というて死ぬこともできず、まあ生きながら幽霊になるようなもんだわ。普通は一年と待たず精神こころが壊れてしまうもんだがの。まともに生きて帰る者は稀じゃわえ」
 魔女たちが歯の無い口で説明するのに割り込んで、オーリが身を乗り出した。
「そうだ、どうやって帰ってこれたんだ? あの十二本の罫線は、やはり何かの時限魔法なのか?」
「条件付き時限魔法、ってやつかな。古書の中で偶然見つけた、まあ抜け道のような方法だ。『外なる鍵と内なる鍵、十二の魔の目といまだ開かざる魔の目、そして五つの十二の重なる時』これらの条件がすべて満たされなければならないんだから、ほとんど成功するとは思わなかったけど。いわば、賭けのようなものだな」
「まてまて、この謎かけは僕も解こうとしたんだ。まだ答えを明かすなよ、オスカー」
 新しい遊びでもみつけたように目を輝かせて、ユーリアンがメモを取り出した。
「『十二の魔の目』というのは多分、あの辞書と手紙の謎解きに関わった六人の魔法使いと魔女のことだ。違うか? 僕、トーニャ、オーリ、ステファン、ソロフ師匠に、大叔父様」
 指を折りながら数えるユーリアンの横で、オーリが考え込んだ。
「いまだ開かざる魔の目、とは?」
「トーニャのベビー。そうでしょ?」
 こともなげにエレインが答えた。
「エレイン、そうだよ! なぜ解ったんだ?」
「普通、そう思うわよ。お腹の中でまだ目を開いていない、でもすでに魔力があるから魔の目、ってことでしょ」
「女性の勘ってのは、時々恐ろしくなる……」
 頭を抱えるオーリには構わず、ユーリアンはメモを取り続けた。
「お前は理屈で考えすぎるんだよオーリ。『五つの十二』これなんて、単純に今日の日付と時間のことだったんじゃないか」
「十二月十二日、十二時十二分か。ええと、秒数まで指定してたとすれば……」
「いや、まさかそこまではね。トランクから出るまでだって何秒かかかるんだから」
「十二回目」
 ミレイユが小声でつぶやいた。
「なにがです?」
「今日は……その、十二回目の記念日、なんですわ。オスカーと、あたくしの……」
「あ、結婚記念日だ! そうだよね、お父さん」
 オスカーはうなずき、赤い顔でそっぽを向いているミレイユを見つめた。
「覚えていてくれたとはね、ミレイユ」
「あ、当たり前ですわ! あなたこそ、とうに忘れていらっしゃったんじゃなくて?」
 オホン、と咳払いをして笑いをこらえながら、ユーリアンが続ける。
「じゃあ、最初の条件。これは難題だ。『外なる鍵と内なる鍵』なんだろうな……」
「ぼく解るよ。それ、お母さんと僕で同じ夢を見て辞書の魔法を解いちゃったことだ」
 一同が顔を見合わせた。
「正解」
 オスカーが満足そうに手を叩いた。
「なぁる……魔力の無いミレイユさんは『外なる鍵』、ステファンが『内なる鍵』というわけか」
「冗談じゃありませんわ」
 ミレイユは細い眉をしかめて、とうに冷めてしまったお茶を無意味にかき回した。

「でも、おかしいな」
 ステファンは首を傾げた。
「なぜぼくは簡単にお父さんに会えたんだろう。誰とも言葉を交わせない場所だったんでしょう? でもぼくは普通にお父さんと話せたよ。それに……」
 怒りに任せて父をさんざん叩いた、とは言わず口の中でゴニョゴニョとごまかした。
「どこでオスカーに会ったって?」
「あの、さっき目が覚める前に、夢の中で」
 答えながらステファンは自分の言葉の矛盾に気付いた。そう、『夢の中』だったのだ。実際に父と会話したり、触れたりしたわけではない。
「お父さん。お父さんからぼくはどんな風に見えてたの? 声は聞こえてたよね?」
「ちゃんと聞こえてたよ。姿も見えたし、ポカポカ叩かれた時は痛かった」
「まああっ、お父さんにそんなことをしたの?」
 咎められてステファンは首をすくめたが、ミレイユはそれ以上叱るわけでもなく、気持ちは分かるわ、とつぶやいて頭を撫でてくれた。
「先生、あれって同調魔法みたいなもの?」
「いや。君はエレインの声と同調するうちに意識が深く沈んでしまって、ほとんど死に近い場所に居たんだ。きっとそのためにオスカーの居た『シムルゥの間隙』に入り込んでしまったんだと思うよ。でもそれは、同調魔法とは似て非なるものだ。前に君は、ソロフ師匠の『童心』に会って声や触感まで現実のように感じ取っただろう。今回はおそらくその逆のことが起こったんだと思う。――まあ、勝手な推論だが」
 ふーっとため息をついて、ユーリアンが呆れたように椅子にもたれた。
「なんともはや、君ら親子ときたら、とてつもないな!」
「まあまあ、難しいお話だこと。それよりお茶のお代わりはいかが」
 マーシャが熱いお茶を勧めて回った。
「親子なんてね、そんなものでございますよ。魔法なんて使わなくても、心を通わせようと強く思えばちゃあんと繋がるもんです。そうでございましょ、ミレイユ様」
 突然話をふられて、ミレイユは慌てて咳払いをした。
「そ、そうですわね。前にステファンが手紙で教えてくれましたわ。あたくしが夢で見たのと同じ光景を見たと。そのおかげであたくしは、ウルリク兄さんのことを思い出し……そうだわ、オスカー!」
 厳しい声で呼ばれて、オスカーは姿勢を正した。
「ステファンが教えてくれましたわ。あなたって人はよくもまあ、無断で人の記憶を消すなんて失礼なこと! そもそもあなたがそんな勝手なことをするから、こんな騒動が起きたんじゃありません? 反省なさってるの?」
「お、お母さん。だってそれは、お母さんのために」
「お黙りなさい、ステファン。だいたいねオスカー、あたくしはそんなに弱い人間ではありません。ウルリク兄さんのことだって、ちゃんと実家に行って話し合って……話し合って……」
 赤い顔でまくし立てていた声が急にしぼみ、ミレイユは膝の上に視線を落とした。
「あたくし『生まれ変わり』なんて信じませんけど。でもどうしても、ステファンを見る度、ウルリクの小さい頃と重ねずにはいられなくて、それが恐くて。けどこの前実家に行って久しぶりに写真を見たら、思っていたほど二人は似ていなかったわ。そうよね、もともと違う人間なのだから。あたくしが勝手に息子と兄のイメージを結び付けてただけだと気付きましたの。だから……」
 おろおろしているステファンの顔をなでて、ミレイユは苦い微笑を浮かべた。
「あたくし、やっと分かりましたの。この子はステファン。ウルリクとは違って、ちゃんと成長して毎年祝福されながら誕生日を迎えられる子なんだって。七月にオーリ先生が迎えにきてくれて良かったわ。でなければ、あたくしは自分の息子の心をを押しつぶしていたかもしれない」
「そう思うなら感謝するべきですよ、オスカーの無謀な行動に」
 オーリの言葉に眉をそびやかして、ミレイユは顔を上げた。
「ええ、感謝ならもうとうに。オスカー、あなたおっしゃったんですってね、『自分の幸せのために生きて欲しい』って。ではあたくし、その言葉通りにさせていただきます。帰ったら、今度こそ弁護士に会ってくださいますわね?」
「お母さん……」
 一瞬、ステファンの目の前が真っ暗になった。そのまま椅子に深く沈み、強く目をつぶる。
 そうなのだ。両親の離婚という、現実が待っていた。
 父が帰ってきたからといって、全て解決したわけじゃなかった。

 目をつぶったまま、ステファンは震えた。
 もしかして、全部夢だったのだろうか。
 オーリローリという、不思議な魔法使いが自分を迎えに来たことも。
 翼竜に乗って魔法使いの家に迎え入れられ、妖精や、神秘的な森や、アトリエの奇妙な連中に会ったことも。赤毛の心優しい竜人、エレインのことも。まがりなりにも魔法使いとして杖を持ち、そして父と再会できたことも。
 みんな目を開けたら霧のように消え去って、誰かが冷たい声で告げるのだろうか、あれは子どもの見る夢だったんだよ、と。

 バチバチバチッ!
 頭の中に金色の火花が飛び、驚いてステファンは目を開いた。
「目が、覚めたかい?」
 額に指を向けたままで、水色の目が覗き込んでいた。
「ステフ、君の手の中にあるものは何だ? 君はそれが、夢だと思うのか?」
 言われるままに、自分の両手を見る。いつのまにか右手で母の手を、左手で父の手を、しっかりと握っていた。
 おずおずと右を見る。うちの息子に何てことするのだと、ミレイユがオーリに抗議している。
 左を見る。オスカーが、心配そうにステファンの顔をのぞきこんでいる。
 視線をめぐらすと、オーリの肩越しにエレインの顔が、マーシャが、ユーリアンが。そして自分の治療に当たってくれた魔女たちが。
「夢じゃない……」
「そうだ、君の手の中にあるもの、目に見えるもの、すべて現実だ。良くも悪くもね。不満かい?」
 ステファンは顔をしっかりと上げ、オーリの目を見つめ返して答えた。
「いいえ、先生」
 そして両手に力を込めて言った。
「お父さん、お母さん、続きは家に帰ってから、ゆっくり話し合おうよ。その代わり、離婚は大人の問題、とか言わないで。ぼくにだって、いっぱい言いたいことがあるんだ!」 

 それから数日間、ステファンが歩けるようになるまで、両親はガルバイヤン家に滞在した。 ミレイユはずっと子ども部屋に泊まりこんで世話を焼いてくれた。この国の子どもの例に漏れず、赤ん坊の頃からずっと独り部屋で寝かされて怖い思いをしてきたステファンにとって、母が常に傍に居るなんて信じがたいことではあったが。オスカーはオーリたちと『保管庫』のコレクション整理に没頭し、ミレイユはミレイユで、マーシャとすっかり意気投合して妙に楽しげだった。
 
 * * *
 
 そして十二月の第三週。ステファンはリル・アレイの駅に居た。田舎とはいえ、年末のプラットホームは人や荷物がせわしなく行き交って賑やかだ。
「どうしても杖は持って帰っちゃだめ?」
 不満そうに口を尖らせて、ステファンはローブの裾を揺らした。
「駄目だ。君はなんといってもまだ見習いなんだからね。杖の練習は、年が明けてから。それまでは魔法使いとしてではなく、ただの子どもとしてしっかり両親に甘えてくること。マーシャにも休暇を取ってもらっているんだから、年内は戻ってくるんじゃないよ、いいね」
 ステファンはふと不安を顔に浮かべた。
「もし、『両親』じゃなくなってしまったら?」
「こら、今からそんな弱気でどうする。大丈夫だよ。二人の左手を見てごらん」
 ステファンは振り返り、父と母それぞれの左手に、まだしっかりと指輪が光っているのを見とめた。
「顔を上げるんだ、ステファン。それに何があろうと、君がオスカーとミレイユの子どもだってことに変わりはないだろ?」
「そうだよね!」
 明るい顔で両親の元へ駆けていく後姿を見ながら、エレインがため息をついた。
「人間ってややこしいのね」
「ややこしいよ。愛想が尽きそう?」
 ふふん、とはにかんだように笑って、エレインは裾の狭まったスカートを気にした。トーニャが贈ってくれたワイン色のペプラムスーツは、すんなりしたエレインの肢体にとても良く似合っている。
「そうだ、一つ疑問が残ってるんだけど。オスカーはなぜ何度も辞書を使う必要があったの? ミレイユの記憶を消すためだけなら、一度で良かったんじゃない?」
 オーリは答えず、昨日オスカーに同じ事を問いただしたことを思い出した。あの時オスカーは言ったのだ。フィスス族が滅んだ原因のひとつは自分にもあるのではないかと。遺跡を発掘しながら偶然竜人の守り里を見つけ、同じチームの人間が発表してしまったことをずっと悔いている、と。その後オスカーが何のために、誰の記憶を消そうとして何度も辞書を書き直したのかは、訊かなかったが。
「人間は、ややこしいんだよ」
 それだけ言ってオーリがもう一度ペリエリ家の三人を見ると、目が合った途端ステファンがこちらに駆けて来た。そのまま右手をエレインに、左手をオーリに伸ばしてハグをする。
「エレイン! もし先生とケンカしても、あの家を出ていっちゃダメだよ。それから先生!」
 ステファンは腕を離してオーリに向き合った。
「エレインをあんまり怒らせないで。今度また前みたいにケンカしたら、ぼくがエレインとケイヤクして守護者になってもらうんだからね!」
 言いたいことを言ってしまうと、照れたようにきびすを返して、ステファンは再び両親の元へ駆け戻っていく。
「しまった、思わぬところに恋敵が潜んでたか。あいつめ……」
「何のこと?」
 きょとんとしているエレインの問いをかき消すように、列車は長い汽笛を残して走り去った。

「あのう……もしかして、エレイン、さん?」
 驚いて振り返る二人に声を掛けたのは、スケッチブックを抱えた画学生風の少女だった。広い額に掛かる前髪を掻き分けながら、金色に近い瞳で見上げる。
「竜人の……エレインさんですよね? それにオーリローリ先生。雑誌に記事を連載していらしたでしょう?」
「よく知ってるね」
 オーリが愛想よく答えると、少女は顔を輝かせた。
「ああやっぱり! あたし、あのお話大好きだったんです。雑誌の記事、全部切り抜いて大切にしてます。あの、サインをいただいても……?」
 少女は遠慮がちにスケッチブックを開いて差し出した。ページの中央に、オーリの描いたペン画が貼り付けてある。
「二人連名でいいかな」
 そう言うとオーリは万年筆を取り出し、『サイン』の意味が分からず戸惑っているているエレインの手に握らせると、自分も手を添えて『エレイン&オーリローリ・ガルバイヤン』と記した。
「わあ、ありがとうございます!」 
 感激した面持ちの少女は、周囲を気遣いながら小声で告げた。
「じつは、あたしの母も、エレインさんと同じような身の上だったんです。誰にも内緒だけど」
「あなたのお母さんは?」
「二年前に亡くなりました。でも亡くなる前、悔いの無い一生だった、って父に言ってたんですって。母と父は駆け落ちだったんですよ。これも内緒だけど」
 少女はそれだけ言うと一礼し、スケッチブックを大切そうに抱えたまま走り去った。

「オーリ、見た? あの娘の目!」
「ああ。竜人の目をしていたな」
 次の列車に乗る人の列に紛れて、少女の姿はもう見えなくなっていた。それでもエレインはなおも、少女の去った方向を見ながらつぶやいた。
「あたし、竜人の血を残せるのかも知れない……」

 やがて列車が走り去ると、駅は再び田舎の静けさを取り戻した。
 オーリはひとつ咳払いをし、改まった顔でエレインに向き直った。
「ところでエレイン、今日が新月の日だって覚えてるかな」
「覚えてるもなにも、あたしが一番分かってることだもの。どうしたの?」
「久しぶりに王者の樹に会いにいってみないか、二人で」
「今から? なぜ」
「だから、今日は新月だから、その……」
 オーリはやや頬を赤くしながら言いよどんだが、エレインの手を取るときっぱりと言った。
「君が故郷で迎えられなかった『新月の祝』を、あの神聖な樹の下で迎え直したいんだ」
「あら、『新月の祝』というのは何十人もの候補の中から一人の伴侶を選ぶものよ。あたしには選択の余地がないってわけ?」
「ない! ない! 君に選ばれるのは、このオーリローリ一人で充分だ。不満か?」
「ふーん?」
 エレインはからかうような目つきで、赤くなって必死な表情をしているオーリを見上げた。
 『選択』ならとうにしている。二年前、故郷と共に滅ぶよりも、この風変わりな魔法使いと共に生きることを選んだあの日に。
 先のことなど誰にも分からない。何もかもが目まぐるしく変わっていく時代の波の中で、変わらずに輝く物など無いのかもしれない。それでも、信じられるものがあるとしたら?
「いやその、約束だけでもいいから……そりゃ、僕は竜人の男に比べたら頼りないかも知れないけど」
 次第に弱気になっていくオーリの声に吹き出しそうになりながら、エレインは大胆に腕を組んだ。
「ま、いいでしょ」

 柔らかな冬の陽射しが斜めに傾く中で、どう、と風が吹き過ぎる。
 風の中に一筋、紅色と銀色の光が走り、笑い声と共に過ぎていったのに気付いた人はいただろうか。

 静かな森の中で、常緑の王者の樹は、一層輝きを増した。

(了)


  〜最後まで読んで下さった読者の方に感謝します。作者よりお礼のメッセージがありますので、ページ左の「次へ」をクリックしてください〜
Copyright 2008 syouka All rights reserved.

-Powered by 小説HTMLの小人さん-

inserted by FC2 system