◇第二部◇ステファンの杖
3.口は禍の元
――これはもしかして、さっきの仕返しのつもりか。
荒い呼吸を整えながら、庭で見た白昼夢のような光景を思い出す。
オーリの一番古い記憶だという、あの山羊の飾りがある窓辺と水色の目の人。オーリャと呼びかけて来たあの人は、なるほど彼の母親なのだろう。あの記憶の光景を見られたことにオーリが酷く憤慨していた理由は知らないが、だからその腹いせにこんな意地悪をしている?
こういうのは何と言うんだっけ。そう、『
大人気ない』だ。オーリは普段から子どもっぽいところがあったけど、こんなやり方はない。だいいち、こっちだって見たくて見たわけじゃない。魔女の言った事が本当なら、オーリが自分の心を閉じないまま読心術なんて使ったせいじゃないか。
「ステファン、君に休憩を許可した覚えはない」
冷ややかな声が石の床に響く。
「言い忘れたが、この修練場内に流れる時間は外の時間とは切り離されている。つまり君の力を見極めるまで、査定官は必要なだけ時間を掛けることができるんだ。意味がわかるか?」
ステファンは目を見開いた。背中に嫌な汗が流れる。
「じゃ、じゃあこれ、何時間も続くとか……」
「『何時間』で済めばいいね。わかったら早く位置に戻りなさい」
静かだが圧力のある声に引きずられるようにして、ステファンは再びルゥカーの前に立った。足が震えるのが自分でもわかる。
必要なだけ時間を掛ける。つまりは査定官が納得しない限り、延々とルゥカー相手に勝ち目の無い攻撃を続けなくてはいけない、ということだ。何時間も、いやもしかしたら何日も? 制限時間なし、と最初に言われたのはそういう意味だったのか。そんな地獄みたいな長い時間がこれから始まるのか?
震えながら顔の前に剣を掲げ――もう一度だけオーリの顔を見て、ステファンは急に剣を下ろした。
怪訝な表情でオーリが何かを言い出すのを遮って、甲高い声が響く。
「先生、ぼくの力って何?」
「なんだって?」
「ぼくの力。最初の課題の時、先生に聞いたでしょう? でもまだ答えてもらってないよ」
三人の魔女が身を乗り出す隣で、オーリが唖然とした顔を見せた。
その表情に、ステファンはかちりと何かのスイッチが入ったような思いがして、いっそう声を張り上げた。
「さっきから力を見せろ見せろって言うけどさ、その『力』が何なのかもわかんないのに、見せようがないよ。先生ならどう、ポケットに何が入ってるのか知らないのに相手に言われた通りの物なんて出せる?」
言っていることが無茶苦茶なのは自分でもわかっている。けれど今はこれに懸けるしかない。オーリが呆れたように息をついた。
「何を言い出すかと思えば! 無駄だよ、ステフ。そんなへ理屈で逃げようとしても――」
「無駄なのは今やってることだよ。ぼくの剣がへっぽこで、弱っちくて、話にならないってことはもうわかったでしょう? でも査定官さんが本当に知りたいことってのは、剣術の腕のことなんかじゃない。そうだよね?」
ほぉ、と魔女たちがどよめいた。オーリは今度ははっきりと顔に怒りの色を見せて厳しい声を投げてきた。
「ステファン・ペリエリ! 査定の内容をどうこう言う権利は君に無い、言われたことを続けたまえ!」
ビリッとした空気の圧を感じてステファンは一瞬呼吸ができなくなった。怖い。でもここで退くわけにはいかない。ステファンはオーリの目を懸命に見返した。
「……できません。先生、嘘ついてるから」
オーリの眉が微かに寄った。
「せ、先生は……」
口の筋肉が強張ってきた。オーリが何か魔法を掛けたのかもしれない。ステファンは必死に言葉を継いだ。
「先生、は、フリをしてるん、だ!」
意地悪オーリ。この修練場に入っていきなり剣を持たされた時は、確かにそう言ってやりたいと思っていた。けれどさっき見たオーリの目には、明らかに別の意図を感じた。査定官にそれを言わなければ、と思いながら強張る口元の筋肉を拳で抑え、言葉を継ぐ。
「ほんと、は、ぼくの、執……」
ふいに静電気が走るような痛みを覚えてステファンは口元を抑えた。と同時に身体が浮き上がり、次の瞬間には壁に叩きつけられた。
呻きながら目を開けると、オーリが杖を向けている。
「まさか自分の弟子に杖を向ける羽目になるとは思わなかったよ。君は自分の立場というものがわかっていない。言多くして禍い多し、ということわざを知っているか?」
言い捨てるとオーリは三魔女に向き直り、苦笑いしながら軽く頭を下げた。
「御覧の通りです。まだ教育というほどのことは何もできておりません」
「ほ、ほ、それはどうかのう」
黄色い目玉の魔女が薄笑いを浮かべ、顎をしゃくってステファンを指した。
「あの小僧はなかなか
性根が座っておるわい。お前さんが庇うまでもないのではないかえ?」
「仰る意味が解りかねますが」
オーリは杖の先をシャツの袖で拭きながら涼しい顔をしている。魔女はしばらくその表情を黄色い目でじぃっと見ていたが、やがて鼻で笑うように言った。
「ふん、まあ良いわ。じゃがこれでは査定にならんのう。ガルバイヤン、回りくどいことをせずにお前さん自ら小僧と剣を交えればどうじゃ」
魔女の言葉にステファンは凍りついた。先日、エレインと決闘まがいの勝負をしていたオーリの恐ろしい姿が蘇る。
オーリは魔女に肩をすくめてみせ、ごもっともです、と答えて杖の代わりに壁の長剣を手に取った。
「ステフ、立ちなさい。仕切りなおしだ」
「ちょ、ちょっと待って先生」
やっと口元の強張りが取れたステファンは、慌てて立ち上がった。冗談じゃない。こうなることを怖れてなんとか回避しようとしたのに。
ルゥカーを退かせて中央に立つオーリと目を合わせる。おかしい。このポーカーフェイスの下に隠した本意を、さっきは確かに見たと思ったのに、今ステファンを見下ろしている寒々とした水色の目からは何の感情も読み取れない。ひょっとして自分の思い違いだったのだろうか。ステファンは再び膝が震えだしたのを覚えながら、精一杯声を張り上げた。
「先生は、防具着けないんですか? 刃がない剣でも当たったら危ないと思うんだけど」
「当たればね」
ヒュン、と剣をひと振りしてステファンを見下ろす顔には相変わらず何の表情も無い。
ああ、駄目だ。どうやらオーリは叩きのめす気満々のようだ。どうして自分のすることはこうも裏目裏目に出るんだろう、とステファンは本気で泣きたくなった。
「ルールはさっき言った通りだ。反則規定無し、制限時間無し、有効範囲は全身。攻撃権は……」
「ぼくにあるんでしょ、わかってるよ! 知らないからね先生、エレインにだって負けたくせに!」
鼻の奥が痛くなるのを覚えながら、ステファンは自分でも何を言っているんだか分からなくなった。こういうのをやけっぱちと言うのだろう。剣を掲げたオーリの口元が、くっと笑ったのが見える。