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◇第二部◇ステファンの杖

5.樫の扉

 出口の扉を開けようとして、ふとステファンは恐ろしいことに気づいた。
『あいつ』が現れたということは、自分はまた何か壊したのではないだろうか。それとも誰かを傷つけたとか。満月の夜、キッチンから追い出そうとして破裂させてしまったあの可哀想なハリネズミの最期を思い出して、全身の皮膚が粟立った。
「――先生?」
 扉のほうを向いたまま、遠慮がちに声を掛けてみる。が、背後からは何の返答もない。不安になって振り返ってみた修練場の中は、やけにがらんとしていた。
 誰も居ない。
 オーリも、査定の魔女たちも、今しがた言い争った『あいつ』の姿さえ無い。高窓から差し込む光の帯の中、冷たい床石の上で無残に散らばっている、かつてルゥカーだったはずの金属片だけが妙に生々しい存在感を見せ付けている。
「先生、どこ? 魔女さーん!」
 心臓が妙に大きな音を立てるのを感じながら、ステファンは視線を巡らせた。
 さほど広くない建物の中には人の隠れる場所など無い。せわしなく歩き回る自分の足音と、呼びかける声ばかりが空しく反響する。
 これは悪い冗談か? もしくは、また何かの魔法を掛けられたとか。いたたまれなくなったステファンはともかく外へ出ようと再び出口に近づき、立ち止まった。
 扉が消えている。
 代わりに目の前に在るのは、ぽっかりと開いた薄暗い空間と、足元から幾重にも折れて連なる階段だった。
『おい、まだ誰か残ってるやつがいるぞ!』
 ずっと下の方から子どもの騒ぐ声が聞こえてくる。ステファンは耳を疑った。
「嘘だろ……」
 手すりを掴み、引き込まれるようにステファンは一歩を踏み出した。
 
 間違いない。ここはステファンの一番嫌いだった場所――初等学校の螺旋階段だ。なぜこんな場所に。自分はさっきまで確かに、エレインの修練場に居たはずだ。おかしい。絶対こんなことは有り得ない。頭ではそう思うのだが、足が勝手に前に進んでしまうので、まるで操り人形のように一段一段下りて行かざるをえない。
 震える手が掴む飴色の手すり、かび臭い壁紙に飾られた古い肖像画、歴代の腕白どもに踏み抜かれて何度も補修した腰板、全て記憶にある通りだ。とすればその先に待っているのは。ステファンはぶるっと震えて足を速めた。
『そーら閉めちまえ、とろい奴は罰だ!』
『ぐーず、ぐーず、置いてきぼり。地獄の門にかんぬきかーけろ』
 男の子たちのはやす声が聞こえる。思ったとおり、階段下の分厚い樫の扉が閉められようとしているのだ。
「待って、待ってよ! すぐに下りるから」
 叫びながら懸命に駆け下りた。少なくとも『駆け下りて』いるつもりだった。けれど思ったほどに足は早く動かない。ああまただ、とステファンは舌打ちした。下り階段になると、いつもどうした訳か平衡感覚がおかしくなり、他の子たちのように早く下りられない。家の階段なら大丈夫なのに、学校の、この校舎の螺旋階段だけはどうしても駄目なのだ。頭がぐらぐらとして、今にも踏み外すのではという恐怖感が足を鈍らせる。
 その間にも、げらげらという笑い声とからかいの言葉だけを残して、樫の扉の隙間はどんどん狭くなっていく。
「待ってってば!」
 ほとんど転がるようにして階段を下り切ったステファンが手を伸ばしたほんのちょっと先で、無情な音を立てて扉は閉ざされてしまった。ただでさえ薄暗い階段室が一気に暗くなる。
「いやだーっ!」
 悲鳴を上げながらステファンは必死に扉を叩いた。
 
 なぜ、他の子たちは気づかないのだろう。重い樫の扉と壁の間には、いつだって何か禍々しい者たちの気配がする。明るい陽射しの中なら分からないが、ふとした陰の中で彼らの長い爪や人ならぬ目線を感じることがあるはずなのに、なぜ誰も怖がらないのだろう。ここはなにせ、学校として使われる前はどこかの貴族の城として使われていたという曰くつきの建物だ。古い扉は古い秘密を隠しているに違いないのに。
「開けて、開けて! 先生、誰か!」
 音も立てず何かが近づいてくるのを感じて泣き叫んでいると、急に扉が開き、つんのめってステファンは床に転んだ。誰が開けてくれたか知らないが、やっと闇から解放されたと思って顔を上げると――そこは戸外ではなく、再びの薄暗がり。
「え……」
 鼻水をすすりながら前を見たステファンは絶望的な気分になった。出口ではない。また、同じような階段が下に続いている。
『ぐーず、ぐーず、置いてきぼり』
 再びさっきの声が聞こえてくる。よろよろと立ち上がり、どうにか階段を下りきると、また同じように目の前で樫の扉が閉ざされる。
 ステファンが叫び、必死に叩いているとまた扉は開かれ、そしてまた螺旋階段が現れる。扉。階段。扉。階段。何度泣き喚き、何度外に逃れ出たと思っても、無限にループするようにそれらは繰り返された。
「どうして……」
 もう泣く気力も失せて床にへたり込んでいると、待ちかねたように壁の中から長い爪の者たちがわらわらと這い出してきた。今度こそ、駄目かもしれない。ステファンは手を振り回して喚き、狂ったように扉を叩いた。
『ムダだよ、そんなことしても』
 すぐ後ろで声がして振り向くと、暗がりの中に人影が見えた。誰なのかは顔を見なくてもわかる。氷のような気配の『あいつ』に違いなかった。
『やつらにはこうして分からせるしかないんだ。どいて』
 ステファンの目の前を、何かが移動した。一瞬だけ血と鉄のにおいが鼻をかすめる。『あいつ』の影はそれ振りかざし、一気に扉に打ち込んだ。
 重厚な樫の扉に大きな音と共に穴が開く。光が差して初めて、扉に打ち込まれた物の形がはっきりと見えた。いつか本で見た中世の首切り役人が持つような、大きな斧だ。『あいつ』は細い腕で何度も斧を振り下ろし、薄笑いさえ浮かべて扉を壊していく。ステファンは呆気に取られながら、自分と同じ姿をしたこの少年を初めて嫌悪せずに見た。いや、不謹慎ながら、斧を振り回す姿をかっこいいとさえ思ったのだ。

 扉が壊されるにつれ、ステファンを脅かしていた長い爪の者たちは、新しい光の帯に怯えるように階段室から消えていった。あと少しだ。あと少しで扉は完全に壊され、今度こそ明るい外に出られるに違いない。ステファンが期待を込めて見ている先で『あいつ』は急に手を止め、斧の柄を差し出した。
「じゃ、あとはよろしく」
「ええっ、ぼ、ぼくが?」
 突然の言葉にステファンは驚いて立ち上がった。
「あったりまえだろ。閉じ込められたのはおまえなんだから、おまえが壊さなきゃ。赤ん坊みたいにべそべそピィピィ泣いてたら全部やってもらえると思ってたわけ?」
「そんな、だって」
 戸惑いながら、自分の顔より何倍も大きな刃を持つ斧を見る。かなり重そうだ。
「できるかな。ぼく、薪割り用の手斧だってまともに使えないのに。それに学校のものを壊すなんて」
 目の前の顔が呆れたような表情を見せた。
「嫌んなるな、おまえどこまで馬鹿? ここまできて『学校のもの壊しちゃいけない』なんてまだ寝言うんだ。だいいち、もう壊してるじゃん。あーそうか、ずっとここに閉じ込められて壁の中の奴らに取り殺されたいんだ?」
 ステファンは反射的に壁から離れ、渋々斧を手にした。が、持ち上げるのを止めて急に顔を上げた。
「やっぱり変だよ、こんなの」
「変? なにが」
 いぶかしそうに茶色の頭が首を傾げた。
「学校で樫の扉が壊されたのはもう随分前だよ。今、ぼくはオーリ先生のところに居るはずなんだ。こんなところにまだ居るなんておかしいよ。ねえこれってさ、夢の中なんじゃないの?」
 ステファンと同じ顔が、表情を硬くした。
「おまえ、ほんっとに嫌なやつだね」
 そして人差し指を向け、額を指し示しながら憎々しげに続ける。
「臆病で、泣き虫で、自分じゃ何も変えられないくせに。そうやって『おとな子ども』みたいな頭だけは持ってるんだ」
「お、おまえだって嫌なやつじゃないか!」
 ステファンも負けずに睨み返した。
「ぼくの知らない間に何もかもぶっ壊してさ。お陰で友達もできなかったんだ。だいたいぼくは執行者憑きになんて生まれたくなかった。こんなの本当のぼくじゃないんだ。本当のぼくは……」
「本当のぼく? 何それ。言ってみろよ、ステファン・ペリエリ」
 言われてみて、はたとステファンは考えてしまった。勢いで言ってしまったが、『本当のぼく』なんて言葉、どこから出て来たのだろう。
「う、うるさいうるさい! とにかくこれは夢だ、夢の中のことなんだ!」
 手を振り回すステファンを鳶色の瞳がじっと見ていたが、やがてにやりと口元を曲げて顔を近づけてきた。
「そうだよ、これは夢なんだ。夢の中なんだから、何をやっても叱られないよね」
 ステファンは手を振り回すのを止めて相手を見た。目の前に、自分と同じ顔がある。自分と同じ鳶色の瞳の中に、驚いて目を丸くする自分が映っている。
「叱られない……扉を壊しても、森の木をなぎ倒しても?」
「そう」
「追っかけてくる怖い犬とか、吹き飛ばして……ぼくの足を引っ張った魔物をバラバラにして……」
「そう」
「もっと酷いことしても? 例えば」
「例えば? 言っちゃえよ、どうせ夢なんだから」
 いつのまにか『あいつ』は兄弟のように顔を並べ、肩を組んでいる。ステファンは静かにその手を押し退けると、目の前の斧を再び手に取った。
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