20世紀ウィザード異聞

第十章 2

 アトリエから出ると、廊下は秋の陽射しが斜めに差している。来客にお茶を出すという初めての『大役』を果たしたステファンは、盆を抱えてホゥとため息をついた。
 最近オーリは、夜も昼もなく絵の制作に没頭している。と共に、アトリエのお客も頻繁に来るようになった。オーリが今取り組んでいるあの大きな絵の出品について話し合うためだ。

「どうやら間に合いそうだね、ガルバイヤン」
 午後のアトリエでお茶を飲みながら、客人はホッとしたように言った。
 薄い金髪をきれいに撫でつけた頭で何度もうなずき、眼鏡の奥から碧色の目を輝かせてにオーリの絵を見ている。
「まだ八分がたってところですが。大丈夫、ちゃんと仕上げるから」
「今回は店の展覧会とはわけが違う。アート・ヴィエーク主催といえば海外からも目の肥えたお客が集まるからね。うちのブースの目玉にしたいんだ」
 立ち上がり、正面からしげしげと絵をみていた客人はオーリを振り返った。
「それにしてもだ。作風が変わったのは仕方ないとして、なんで名前まで変えたかね。十代の頃本名で描いてた時は天才児とか騒がれてたのに、みすみす看板を架け替えるようなもの……あ、いやその」
 水色の目が不愉快そうにこちらを向いたのを見て、客人は慌てて話題を変えた。
「相変わらず描き始めると早いな。もっとも取り掛かるまでが遅くていつもハラハラさせられるが」
「早くないですよ。昔の聖堂で壁画を描いてた絵師達の仕事はこんなものじゃなかったはずだ」
 オーリは遠い目をしてカンバスを見上げた。
「壁画、か。なるほどそんな雰囲気もあるなあ。これはいいよ、ガルバイヤン。竜人というモチーフもいい。他の画家には悪いが、今回の展示の中では群を抜いて高額がつけられると思うね」 
「どうかな、流行の抽象画ならともかく……まあ値段の話はあんたに任せますよ、キアンさん。わたしはただ、一人でも多くの人にこの絵で訴えたいだけだから」
 腕組みをして立つオーリの銀髪は伸び放題で、無造作に束ねられたままだ。絵の具だらけの襟の上では、顎の周りに無精ヒゲすら見える。けれど水色の目はそれ自体が発光しているのではないかと思えるほど強い輝きを放っていた。
「いい顔になったな、魔法使いくん。すっかり『戦う芸術家』の風貌だ」
 キアンと呼ばれた壮年の来客は、画家の横顔を見ながら愉快そうに笑った。
 
 
 ステファンは一階に降りると、思い切り背伸びをした。
 今日は、マーシャもエレインも出掛けている。お茶の淹れ方だけは教わっていたものの、なんだか緊張して疲れた。難しい顔で仕事の話をしている時のオーリは近寄りがたい。いつもエレインやステファンと冗談を言い合っている時とは別人かとさえ思ってしまうほどだ。
「大人の話には口をはさんじゃいけないし。子どもってつまんないや」
 ステファンは盆を放り出し、クッキー入れはどこかな、と戸棚を探し始めた。
 戸棚の中は、マーシャが作り置きしたジャムの瓶やクッキー缶がきちんと並んでいる。これが結構評判らしく、今日もマーシャは近所のおかみさん達の集まりに招かれて行ったのだ。
「あー、いっけないんだ、つまみ食い」
 いつの間に帰ったのか、エレインがからかうように言いながら顔を覗かせた。
「遅いよエレイン。先生のところにお客さんが来てるんだ。お茶はなんとか出したけど、カップなんてどれを使ったらいいかわかんないし、ぼく一人で困っちゃったじゃないか」
「で、クッキーも出すの? どんなお客?」
「ええと……このごろよく来てる、なんとかいう画廊のメガネの人」
「画廊?」
 エレインは眉を上げて少し考えたが、すぐに笑い出した。
「ああ、サウラー画廊のキアンっておじさんでしょ。クッキーもジャムも要らないわよ、あの人お砂糖がダメらしいから」
「へえ、そうなんだ」
 ステファンは半ばホッとして、改めてクッキー缶を取り出した。
「じゃ、おやつにしようっと。マーシャがね、青い缶のは家族用だから食べていいって言ってたよ。エレインも食べる?」
「もちろん」
 もうすっかり人間の食べ物――といってもお菓子だけだが――に慣れたエレインは、缶の蓋を取ろうとしてピクと耳を動かした。
「――オーリが何か変」
「え?」
 ステファンが聞き返す頃には、エレインは階段を駆け上がっていた。

「そんなばかな!」
 廊下にまで響くのは、ひどく怒ったようなオーリの声だ。
 アトリエの椅子では、キアンが困惑したような顔で座っている。
「悪い話ではないと思うが。何か問題でもあるのかね?」
「おお有りだ。なんでカニス卿の名前がそこで出てくるんです!」
「オーリ、火花」
 エレインに注意されて、オーリは背中で散っていた青白い火花を消した。
「ごめんねキアンさん、普通の人から見たら、魔法使いの出す火花って怖いわよね。で、カニス卿って誰?」
「これはエレイン嬢。いや、ガルバイヤンの絵を気に入ってくれたらしくてね、今後出資者になってもいいと名乗りを上げた人のことだよ」
「カニスって、前に駅で竜人をいじめてた人だよね」
 ぼそっとつぶやいたステファンの言葉に、エレインが顔色を変えた。
 オーリはたしなめるような目を向けたが、仕方ないな、と言って駅やパーティーでのいきさつを説明した。
「なるほど、君とは個人的な因縁あり、というわけだ。出資の話は何か魂胆がありそうだな」
 キアンは面白そうにオーリの表情を伺っている。
「魂胆もなにも、嫌味に決まってるじゃないですか。早速カネの力を見せつけようというわけだ」
「当然君は断るだろうから、その次の手も考えているんだろうな」
「まさか出品の妨害をするとか?」
「いや、わたしなら君の絵を独占的に買い占めた上で今後の作品発表の場を奪うことを考えるだろうな。君の絵を買いたがる画商は多いから当然値段は吊りあがり、ガルバイヤンという絵描きを屈服させることもできる。一石二鳥だ」
「……恐ろしいことをさらりと言わないでくださいよ。出品したくなくなってきた」
 頭を抱えるオーリの横で、さっきから黙って聞いていたエレインが口を開いた。
「いいえ、むしろ出すべきだわ」
 緑色の目は鋭いままでオーリのほうに向き直る。
「オーリ、画家には画家の戦い方があるのよね? あたしは絵の事は解らないけど、戦いなら絶対にしちゃいけないことがあるわ。『敵前逃亡』よ」
 オーリが驚いたように目を見開いて、ごくりと唾を飲み込む音がステファンにも聞こえた。
「君らしい考えだなエレイン――いや待てよ」
 しばらく考えていたオーリは、顔を上げて絵をみつめた。
「守護者どのの言うとおりだ。戦う方法は確かにまだあったな。正攻法かどうかは知らないが」
「おいおい! まさかカニスと魔法合戦でもしようなんていうんじゃないだろうな。うちも商売だ、お得意さんを怒らせてもらっちゃ困るよ」
 キアンの心配を打ち消すように、オーリはニヤリと笑ってみせた。
「大丈夫、ちゃんと画廊には儲けてもらいますよ。カニス卿に伝えてください。お近付きのしるしに今回の作品には卿の顔を描き入れさせてもらう、とね」
 画廊のキアンが帰った後、オーリは新聞社や雑誌社に使い魔のカラスを送った。ここしばらく郵便と電話に仕事を取られていたカラスどもは、喜んで飛び立って行った。

「信じらんないよ! どうしてあの嫌な髭男の顔なんて描くの?」
 最後の一羽が飛び立つと、ステファンは抗議した。オーリの仕事に口出しをするつもりはなかったが、今度の絵はエレインがモデルになっているのだ。その画面によりによってあの憎たらしい顔を描き入れるなんて、絵が穢されるような気がして嫌だった。
「うーん、やっぱりイメージだけじゃ似てこないもんだなあ。写真が届くのを待つか」
 オーリは呑気に鉛筆を指で回しながら、スケッチブックにカニスの髭づらを描き起こしている。
「先生ってば!」
「あ、ステフ。君のお茶、美味しかったよ。お代わりをポットで持ってきてくれるかな」
 全く意に介せず、といったオーリの態度にぷうっと頬を膨らませて、ステファンは乱暴にティーカップを下げた。

「そんな扱いをしちゃカップが傷つくわよ。それ、マーシャのお気に入りなんだから」
「だって! エレインも先生に何とか言ってよ、カニスなんかと一緒に描かれて平気なの?」
 憤慨するステファンと共に階段を下りながら、エレインはふっと微笑んだ。
「絵のことでは彼に何を言ってもムダよ。完成を待ちましょ。オーリのことだから、きっと何か企んでるに違いないわ」
 そうして先に下り、階段のステファンを見上げて言う。
「あたしのために怒ってくれてありがと、ステフ」
 どきりとして、ステファンは立ち止まった。何だろう、最近のエレインは。明るい緑色の瞳は変わらないが、時々竜人らしい猛々しさが消えて妙に雰囲気が和らぐ時がある。以前なら真っ先にオーリに抗議するのは彼女の役目だったろうに。
「なんだよ! なんだよなんだよ先生もエレインも! ぼく一人で怒ってバカみたいだ!」
 ステファンは赤い顔をしてキッチンに向かい、次はうんと苦いお茶を淹れてやろう、と思いながらケトルを火にかけた。

 しかしそんな腹立ちも、翌日からのオーリの苦闘ぶりを見ているうちに消し飛んでしまった。これまでも昼夜の区別なく絵に向かうのは大変そうだったが、オーリはむしろその大変さを楽しんでいるようにさえ見えたものだ。けれど仕上げの段階になって、彼は苦しい表情を隠さなくなってきた。
 絵の中の竜人たちは、完成が近づくにつれて命を持ったかのように生々しい存在感を示すようになった。オーリは逆にひと筆ごとに憔悴していくかに見える。まるで自分の魔力を削って絵に分け与えているようだ。
 心配してそれを口に出すと、隈のできた目元に笑みを浮かべてオーリは答えた。
「作品を世に送り出すというのは、そういうことなんだよ」
 愛用のマホガニーのパレットはすでに何色の絵の具がこびりついているかわからない。さらにその上で新しい絵の具がぐしゃぐしゃにせめぎ合い、オーリの格闘ぶりを示している。彼はそれを抱え、これでもか、これでもかと筆を運ぶ。
 エレインはただ黙って見守っていた。
 
 そしてある寒い日。夜通し描き続けていたオーリは最上部の竜人を描き終えたところで筆を止めた。脚立を下りて照明を消すと、いつの間にか夜は明け、北側の天窓からは、柔らかい朝陽が光の帯を投げかけていた。オーリは自然光の中でしばらく絵を見つめ、よし、とひと言短く言ってうなずいた。
 天井の梁の上で見ていたエレインは音もなく飛び降り、腕を伸ばして絵の具に汚れた顔をしっかりと抱き寄せた。
 眠くて半ば朦朧としていたステファンの目に、不思議な光景が映る。下絵に塗り込められていたはずの翼を持つ天使が絵を抜け出し、オーリに賞賛のキスを与えている――どこまでが現実でどこまでが夢なのかはっきりしないまま、ただあの絵が完成したのだということだけ、分かった。ステファンは安堵の息をつき、アトリエの壁にもたれたまま眠りに落ちた。

 気が付けば、十月も半ばになっていた。
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